代表取締役 福嶋 進
設立 | 平成15年5月 |
---|---|
事業内容 |
|
会社HP | http://www.bestbuy-smile.biz/ |
【第1章 〜田舎者、大志を抱く〜】
「いつかアメリカへ行きたい!」
物心ついた頃からそんな風に思っていました。
瀬戸内海の島国。
決して裕福とは言えないみかん農家の息子として生を受けた私の幼少時代は、
畑仕事の手伝いと海遊びの毎日。
そこは赴任してきた教師に僻地手当がつくほどの田舎。
そんな環境で育った私は、いつしか都会に対する強烈な劣等感をもつようになりました。
広島から大阪、東京、さらには遠い異国のアメリカにまで憧れをもちました。
とりあえずは四国本島の高校へ入学し、下宿暮らしを始め、
その後憧れの東京の大学へ進学。
期待に胸を膨らませていた私がそこで見たものとは、
想像とはまるで違う怠慢な若者たち。
毎日学校をさぼって麻雀やパチンコ、たまに出た授業では居眠り…。
田舎で真面目に育った私にとってそれはとても大きなショックでした。
「こんなんじゃ自分もダメになる!」
そう思った私は、たった1ヶ月で大学を辞めました。
そして、夢に見た、アメリカへ。弱冠19歳のことでした。
【第2章 〜一生の恩人との出会い〜】
大学を辞めたあと約1年間アルバイトをして旅の軍資金を貯め、
あてもないままバックパックかついでアメリカへ渡りました。
「とにかくアメリカに行ってみたい!」その一心でした。
数カ月してお金も底をついてきた頃、
泊っていたモーテルでその後の私の人生を大きく変えことになる人物と出会いました。
その人は初めて知り合った私に家に来るよう勧め、
ロサンゼルスの南に位置する高級住宅街にある彼の自宅へと私は向かいました。
会ったばかりの見ず知らずの他人についていくなど、今でこそ考えられませんが、
当時二十歳やそこらの私には怖いものも失うものも何もないと言った感じだったのでしょう。
大邸宅に一人で暮らす彼は用心棒の意味も兼ねて私を誘ったそうですが、
しばらく泊めてもらっている間、やることがなかった私は
もともと幼い頃から得意としていた庭の整理やプールの掃除など、
お礼のつもりでとにかく働きました。
1週間ほどたつと、そんな私の働きぶりを見て、
彼は私にこのままここに住むよう勧めてくれました。
もともとお金が尽きたら帰国するつもりでしたので、
その時の彼の提案はとてもありがたく感じました。
この時彼と出会っていなかったら、
彼の家へ行かなかったら、
彼の提案を受けていなかったら…。
今の私はなかったでしょうね。
若さゆえのその強さ、行動力。今では羨ましくも思えます(笑)
そして語学学校に通いながら10ヶ月。
アメリカの大学の入学条件でもある試験を受験した私は、
いよいよアメリカの大学へ入学することに。
【第3章 〜ビジネスの目覚め〜】
結局大学には5年間在籍したのですが、
その間は勉学に励むというよりは、ビジネスというものに触れ、
色々な経験をさせてもらった5年間でした。
大学入学間もなく始めたレストランのアルバイト先で、常連客のある日本人に
誘われて始めたのがガーディナーという、いわゆる芝刈り師の仕事でした。
誘われた時はまだレストランでアルバイトし始めてたった1ヶ月でしたが、
思いたったら即行動型の私は彼の誘いに二つ返事で答え、
その1週間後にレストランを辞めてガーディナーの仕事を始めました。
いざやってみるとその仕事は驚くほど簡単な単純作業で、
もともとそういうことが得意だった私はすぐコツを覚え、要領を得ていきました。
当時ガーディナーという仕事は普通メキシコ移民がやる仕事で、
おおざっぱな彼らの国風に比べ繊細で几帳面な日本人特有の仕事ぶりは
多くのアメリカ人からも好評を得て、しばらくすると私は思い切って自分で募集広告を出し、
仕事を獲り始めるようになりました。
とにかく他の誰よりもきれいに仕立てる私の仕事は次から次へと新しい紹介を呼び、
いつしか大学の友人を3,4名雇って行うまでになりました。
これが、私のビジネスのきっかけ、起業第1号ですね。
その頃私が手にしていた貯金は約1,000万円。
日本から家族や友人を招待したり、ヨーロッパへ旅行したり、
とにかく稼いだお金はことごとく遣いました。
大学も卒業の頃を迎え、相変わらず続いていたその仕事で食べていく選択肢もありましたが、
私は日本帰国を選びました。
正直、アメリカでビジネスをやることに興味がなかったんですよね。
だって、もともとアメリカに来たのも、ただ「アメリカに行きたい!」だけでしたからね(笑)
【第4章 〜露店商からのスタート〜】
26歳、日本に帰国した私は特にすることもなく、
なんとなく大阪の地下鉄終着駅「あびこ」にアパートを借りて就職活動を始めました。
何社か受験したのですが、その結果はことごとく不採用。
アメリカでやり遂げた経験から自分には自信をもっていた私が、なぜ?
自分ではその理由がまったく分かりませんでしたが、ある時友人に言われて気付いたのです。
かえってそのアメリカでの経験が足かせになっている、と。
つまりは、やった分だけ給料をもらえるのが当たり前というそのアメリカンスタイルは、
当時の非常に保守的な日本の企業人事の目には疎ましく思えたのでしょう。
入社したら危険人物になるという風に。
仕方なく就職をあきらめていた私は、
帰路の途中、あびこ観音付近に露店を張って商売をしている露店商と親しくなり、
どうせやることもなかった私はそのおっちゃんに路店商の仕方を教わって、
あれよあれよと自分も商売をスタートさせることになりました。
その後日用雑貨を売り歩くこと約2年。
商売も安定すると同時に、
このまま露店だけでずっと商売していくのはしんどい、そう思うようになりました。
そこで、たまたま知人の紹介で見に行った生野の商店街の7坪の空き物件で
店舗を構えることにしました。
「いよいよ自分のお店をもって商売ができる!」
胸が躍りましたね。
【第5章 〜リサイクルとの出会い、ベストバイの誕生〜】
当時日本はまだまだ物不足の時代でしたから、お店の方はどんどん繁盛し、
2店舗3店舗と順調に事業を広げていきました。
一時は15,6店舗までに拡大しましたが、
その頃から近隣にできた大型店舗やユニクロ、
しまむらなどに代表される低価格商品店の出店が後を絶たず、
昔ながらのやり方を守る商店街の小売店は軒並みつぶれていきました。
当然私のお店も例外ではなく、その波に追いやられるようにして縮小していきました。
お店を始めて18年、ちょうど私が40歳を過ぎた頃のことでした。
「もう1回自分の人生を懸けるような、何かをやりたい!」
自然と、そんな気持ちがふつふつと生まれてきました。
それからというもの、ありとあらゆる本を読み、セミナーなどに参加して勉強し、
いくつか新しいビジネスに挑戦して失敗したこともあります。
それでも挑戦することをあきらめず、
失敗を失敗と見なさずに前向きに挑戦していった結果、リサイクル業界に出会いました。
この業界は面白い。
なぜならこれからの時代、非常に需要が生まれる可能性を秘め、
それでいてまだまだ未確立な業界であるため、自分のような素人でも太刀打ちできる。
ちょうどアメリカでガーディナーの仕事を自分で始めた時と同じような感覚で、
これなら自分も勝てる、そう確信した私は
すぐさまリサイクルショップ第1号店をオープンしました。
今から8年前、株式会社ベストバイの誕生です。
【最終章 〜そして、これから〜】
最初は特に店舗計画などたてず、ただがむしゃらに事業に励みました。
「リサイクルで成功したい!」そう願うばかりでした。
それが気が付くと店舗数も15を超え、
業界トップと言われている企業の売上の足元が見えるほどに成長したタイミングで
新卒採用を始めました。
この頃には店舗や売上計画も明確にし、
それに関わる人員計画もしっかりと立てて、
満を持して新卒採用に踏み切ったという感じでした。
これから100億、200億、最終的には2000億企業を目指して
さらなる事業展開を行っていくつもりですが、
そのためにも優秀なヒトが必要です。
ここで私が言う優秀とは決して学歴などのことを言っているのではありません。
ヒトに対する思いやり、物事への執着心を持つ、そんな人材を求めています。
そのために毎週全社員の週報にコメントを書いて返信したり、
知命塾という研修道場を設け定期的に研修を行ったりと、
社員育成には最も力を注いでいます。
「立派な日本人たれ」
みなさんには、そんな誇れる人材になってほしいと切に願っています。