代表取締役 春藤 康仁
設立 | 平成15年2月14日 |
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事業内容 |
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会社HP | http://www.independence-k.co.jp/ |
暗闇の中でもがいた幼少時代、10代
幼稚園の年長で両親が離婚しました。幼少の頃は、阪神タイガース(特に掛布選手)が
大好きで、わたしの中のヒーロでした。小学校から、故郷の神戸を離れ、叔父、叔母に育てて頂きました。
早朝のランニングを行い、玄関の掃き掃除、草むしり、その後、歴史上人物の伝記を読まなければ、
朝食が出てこないような家庭環境でした(笑)。実父の姉であった叔母は、
わたしを必死で育てようとしていました。
野球が非常に好きだったので、縁があって中学から野球で寮生活を始めることとなりました。
ただ、身体エリートではなかったので、小学校で肘、中学校で肩、腰・・・次々に壊れました(笑)。
野球が好きで、野球の世界しか知らなかった自分にとっては非常につらい時期でした。
高校は野球で進学。心身とも、多感な思春期で苦しい毎日を過ごすこととなりました。
自分を探した学生時代
道がないわたしは、高校卒業時に(宮)大工の職人になろうと就職活動をしていました。
あと、漠然と燃えつきたい・・・。ある人から「自分の人生をやり直さないと、
自分を肯定できないよ」と諭されました。そこで、単身横浜にでました。
そして大学を目指しました。大学と言っても、東大か体育大学しか知りませんでした(笑)。
その後の1年は、友との出会いがあり、空間と時を共に過ごし、貴重な財産となっています。
大学は東大ではなく、日本体育大学に入学しました(笑)。気持ちの向くまま、
講義を聴講している変な学生だったと想います。日本体育大学って面白いんですよね。
授業なんかやりに来ている学生がほぼいないんですから。明確に専門競技をするか、
何してるのか解らない人達がいました。私は後者でした(笑)。でも授業は面白かった。
学問?に触れたことがなかったので、わたしは興味がすごかったです。
人(自分)とは?を探していたのだと想います。基礎教養としての哲学、
スポーツや教育心理、スポーツ医学、生理学、解剖学、生命科学・・・のさわり。
課外授業で、漁船に付き添われ海を延々と泳いだり、真っ暗な森林の中で一夜をすごしたり、
わたしの原点は、日本体育大学です(笑)。他大学の経済学の教授とマンツーマンで飲みに
行くこともありました(笑)。普通の学生とは少し違っていたと思います。大学2年生から生理学・
スポーツ医学の研究室に入ったのが縁で大学院へ進みました。
大学院で受けた教育が今の自分、今の思考の土台・骨組みになりました。
「芽生え」を見つけた時期
最初の就職先となったのは、私学の高校(定時制・通信制)の保健体育の教員でした。
教員は人の人生を左右する職業でなりたくない・・・そう思っていました。教職って人を
左右することを知っていましたから。大学の先輩からの依頼であったので、結果、就きたくない
仕事から社会人生活がスタートすることとなります。
とはいえ、不景気な時代ですから、応募すれば1枠に100人が殺到応募する時代、
今も同じだと想いますが、急にその1枠の人がこれなくなったのでということでしたので、
とにかく、1年間、務めようと決意しました。家庭環境が複雑な生徒も通っていた場所
であったこともあり、激しく揺れ動く心や声に出せない心、暗闇を彷徨う、活き場のない心・・・。
偽りの通じない生徒たちに「自分(わたし)」を引き出されました。自分の心の奥に眠って
いたものを生徒が引出してくれました。大切なものを引出してくれました。授業や課外活動、
生徒指導、とんでもない?教員だったかもしれません(笑)。一年目に野球部のコーチをさせて頂き、
定時制通信制の軟式野球大会の県大会で学校創設以来の準優勝を果たしました。
練習も公園を貸切?みたいな練習でしたし、2校合同のチーム編成、気合の奇跡でした(笑)。
その生徒たちがわたしの教員生活、最初で最後の生徒たちとなりました。
当初の予定から「スポーツを通じて、より多様な多くの人との関わりの中で・・・」。
私の次の場所は、横浜市の地域のスポーツ振興を担う財団法人の嘱託職員でした。
これもまた、100人超応募の6名採用枠ぐらいだったと想います。これは試験を受けました(笑)。
先輩方に恵まれ、ほんとうに可愛がってもらいました。入社3年目だったか、改善した方が
いいと思う想いなど、「市長への手紙」という制度で横浜市長へ手紙を出しました。
当時、中田市長でしたので、そんなことしても良いような雰囲気でしたが、
市長への手紙は途中で止められました(笑)。ただ、組織のあり方について、
目が行くようになったのはこの時期です。
先輩方の職場でのわたしのあだ名は、「リーダー」でした(笑)。
今思えば、自分の特徴の輪郭が浮かびあがった時期かもしれません。
自分の行動を整備する時期
しばらくして自分だけでなく家族の人生を背負う覚悟が必要になりました。結婚です。
嫁のお腹の中に自分の二世が誕生(笑)。先の財団の現場の職場には、各民間OB(退職)
世代が事務方の嘱託職員として働いていらっしゃいました。その一人の方がプライベートな
会合の中で、わたしのことを「半官半民に面白い奴がいる」と話題にされていたようです。
その中に人材を企業に紹介する会社の先生がいらっしゃり、出会いがありました。
ヘッドハンティング系の職種・業種・職歴・経験がないので、毎週、横浜駅で
その先生とお会いして、民間と公の違い、必要な感覚や知識などのレクチャーを数回受けました。
外資の製薬会社のMR募集で応募を薦められ、数千人の中の数名ぐらいに残ってしまい、
数時間の面接を体験したこともありました(笑)。その時は、場違いなところにきてしまったと・・・(笑)。
その後、「君はベンチャー企業が向いている。そして5年間腰を据えてやった後、
君のやりたい事業をすればいい」とのことで、今の会社の前親会社に就職することになります。
数ある会社の中で入社を決めたのは、当時面接の最前の専務と自分の価値観をぶつけ
合う日が続き、さらには、創業者社長との話し合いの末、涙する瞬間(心の情動)があったからです。
いざ現場へ向かうと、親会社と子会社の社員間の信頼関係の欠如やお客様への
商品・サービスの不具合、意思の疎通が理想とは大きな隔たりがありました。
状況は想像以上に危機的で、現場に携わりながら、本社開発の企画を続けながら、
「この場にわたしがいる意味があるのか」とふと頭をよぎりました。
現場、夏の深夜2時頃だったでしょうか、先の想いで空を見上げました。
大学院の友人の顔が浮かびました。「俺は、期間を決めたら迷わない」という言葉が
頭をよぎりました。彼は大学からレスリングを始め、世界8位の成績を残した男でした。
この仕事3年間はやりきろうと腹をくくりました。
迷わず、行動し、ただ現場を改善する3年間が過ぎました。自分の外部環境が変わりました。
周りには、社員がいました。そしてその家族も増えていました。お客様がいました。
そしてそのご家族がいました。わたしは一人ではなくなりました。
「情熱」こそ、発想の着火剤
時代は刻々と移り変わり、投資マネーの流入による資源価格高騰、リーマンショック、
昨今の世界経済情勢、長期的な人口の減少、生産年齢人口の減少、国内消費の低迷・・・。
その中、自身と自社の価値を追求してきました。これまで以上に個々の力、
組織という有機体を機能させ、動かしたいと想っています。
仕事の能力を「価値観」、技術、知識という3つの尺度で捉えると、「価値観」がない人に
「価値観」を伝えるのは至難です。技術、知識は後付けでもいい。「情熱」って価値観の
一つの要素なんです。情熱⇒ひらめき・発想⇒具現化⇒継続⇒破壊⇒再構築⇒情熱
なんだとわたしは想います。この取材のご依頼があったとき、「情熱 Passion」というタイトル
に惹かれました。「情熱」は、着火剤であり導火線なんです。
笑顔を嫌がる人なんていない
事業に関しては、当社の商品・サービス、それは「人」です。
当社は「人の暮らし」をサポートする事業です。社員が「継続」して楽しめなければ、
お客様に「継続」して喜んで頂けません。当社単体で「暮らし全般」をサポートするのは不可能です。
多くの外部の専門の方々(社会資源)が必要に応じて有効に機能し、お客様をサポートする。
その協力者の方々や地域の方々、かかわる多くの方々が「笑顔」になる。
そうでなければやがて「継続」することが難しくなります。「継続」できなければ、
社員やそのご家族、お客様やそのご家族は「笑顔」になれません。
すべて繋がっているんですよ。そして事業で得た利益から税金を払い、また、社会に還元していく。
それらが社会保障費などに有効に活用される。お金は循環するもの。
お金が回るから経済(全体)が元気に、多くの方々(個)が「笑顔」になれる。
どの世代も互いに必要とし、生(活)きていける。自分も一世代の人間として、
継続して「楽」しめ、「喜」ばれ、「愛」され、「笑顔」あふれる空間を「継続」したいと強く想っています。
今まで、事業の目的は、「笑顔」であるとお話しました。それを叶えるためには、
「継続」が必要であることもお話しました。その「継続」の本質には、理解があり、
理解には、信頼があり、信頼には、コミュニケーションがあります。ゆえに、「笑顔」には、
種々のコミュニケーションが必要です。人の中で(生)活きる、人は社会的動物と呼ばれる
ゆえんであると感じます。これまでの歴史が物語っています。
【学生へのメッセージ】食べるために働く。そこからでいい。そして、仁義を忘れない。
すでに黄金に輝く情熱を兼ね備え、子どもの頃に描いたヒーローになって、
(生)活きていけるような人はごくわずか。例えば、野球選手になれるのは?
その中で1軍で活躍できる選手は?その中で伝説になれる選手は?
宇宙飛行士になれるのは?就きたい仕事につけるのは?起業した会社の10年後の継続率は?
養老孟司先生の『バカの壁 』に著されていたように、初めから登る山を知る人は少ない
のではないでしょうか。目の前の穴に飛び込み、目の前の山に登り、落ちてもがいて
苦しんで、再び立ち上がる。多くはそこから、はじまるのが自然だと感じます。
苦難苦労があろうと、一定期間は決めつけて物事にかかる。
漠然としながらも、人それぞれの、その人の根本的な軸を、大きくブレながら、
小さくブレながら、定めていく。自分の中の方位磁石です。
自分で創って行くことが大事だと感じます。「どこにいるのかよりも、
どの方向に向かっているのか」それが大切なことだと想います。
そして、一定期間をやり切った後、自分の立ち位置・考え・世界感、背負うものが変わっているはず。
そこで、向かう場所(方位磁石)を意識すればいい。その積み重ねで、やがて一生をかけて
登りたい山が見えるのかもしれません。
また、「誠実」であってほしいと想います。運よく、また、努力して、登りたい山の麓(ふもと)
に辿り着いたとしましょう。現在進行形で、その過程で、お世話になった人やお客様や
会社や仲間がいるかもしれません。多くの人に誠実であってほしいと想います。
「仁義」、今の20代には古い言葉かもしれませんが、「仁」とは人を大切にする心であり、
「義」とは道です。この部分も「価値観」の尺度になりますが、わたしは意識しています。
仕事は「気づき」です。大小、寒暖の「情熱」がなければ、先ほどの話のように
「ひらめき・発想(気づき)」はありません。「気づき」がなければ、その先を「形にする
(具現化)」もないわけです。繫がりなんです。そして「継続」する。
今のやり方で人を「笑顔」にできなければ、創ってきた「形」を破壊することだって必要になります。
そして、「笑顔」にするために「再び形(再構築)」にする。「情熱」がなければ到底できません。
「情熱」は湧きあがるものです。寝ているような生活の中で、「情熱」は湧きあがってきません。
最後に、今のそのままが現実なんです。例えば、判断できない、就職できない、
何をしていいかわからない、そこから、すべてをはじめるんです。