代表取締役 福 和敏
設立 | 2007年4月 |
---|---|
事業内容 |
|
会社HP | http://tokyo-no1.net/ |
映像との出会い
私の出身は奄美大島。
当時は、娯楽と言えるものが少ない環境で育っていました。
娯楽と言えるのはテレビくらいでしょうか。
必然的に、テレビへの関心が高まる環境に私はいたのです。
この業界に入る事になった要因も、この環境であったように思えます。
レンタルビデオが始まった当時、自分でビデオデッキを買って初めて見た「ターミネーター」。
その映像に衝撃を受けた私は、テレビを見るときにその内容について考えるようになりました。
中でも、CMに対して深い興味を持つ変わった子でしたね。
高校を卒業し、私は学校が推薦する工場へ就職。
しかし、どうも面白くない。
これを一生続けるわけにはいかないなと考え、
すぐに退職し名古屋へ。
憧れのテレビ業界に就職しようと考えたのです。
しかし、そう簡単に就職先が見つかるはずもありません。
この業界で未経験の人を雇うという事はあまりなく、50社ほど受けて合格通知は0。
これで駄目だったらあきらめよう。
そう思って受けた最後の一社で、ようやく憧れの業界へ踏み入れることとなりました。
徹夜して仕事。お金はない。
その様な状況が楽しくてたまらない。
それほど、熱中して仕事をしていました。
いざ東京へ
地元ローカルの番組を作っていた私は、
次第にもっと大きな場所で活躍したいと考え東京へ進出することを決めます。
この時から、映像を作りこむという事に興味を抱いていましたね。
TV番組ではなく、自らの手で映像を作りたかったのです。
当時はミュージックビデオの全盛期でした。
その場で活躍するために、再び就職活動が始まります。
中々就職を決められなかった私は、派遣業務の会社へ登録。
「僕は天才だから絶対に入れたほうがいい。」
そう言って、その会社の社員に紹介を頼み込んだのを覚えています。(笑)
こうして勝ち取ったのは、当時その業界で日本一の会社。
しかし、そこでの仕事を思ったように楽しむことはできませんでしたね。
名古屋とはレベルが違いすぎたのです。
監督希望で入ったのですが、その道は厳しく、
プロデューサーとして全体を仕切るようになっていきました。
今考えると転機だったかもしれません。
プロデューサーという道を選んで良かったと今でも思っています。
それからしばらくして、たまたま縁があり、ウェブの映像業界他社へ転職を決めました。
web映像の可能性を求めて転職したのですが
舞い込む仕事は皆ミュージックビデオの仕事ばかり。
web映像の限界も知り、ミュージックビデオに専念しようと会社から離れる事を決めました。
大手にいて、システマチックだったり、利益にうるさかったり、
それによって良いものが作れないという状況にうんざりしていたのです。
思い切って決断する
それならば自分でやるしかない。
私は独立を考えていました。
しかし、自分で経営などしたことのないものですから気持ちとしては半分半分。
その気持ちのまま税理士に話に行くと、「やんなさいよ」などと軽く言われます。
「じゃあ、やります。」
私のこの簡単な返事で、独立が決まりました。
東京No1の出発です。
最初は組織としても未熟だったのですが、
ある時大きな仕事を受けたことをきっかけに、やっと会社らしくなってきました。
イベントにかかわる仕事全てのプロデュースという大仕事。
億単位の依頼を受け、様々な苦労をしましたね。
ストレスから動けなくなり、それでも這って仕事を続ける経験はもうしたいとは思いません(笑)
それからしばらくして、時は大震災直後。
弊社は過去最低の売り上げを記録します。
このままいくと会社がつぶれてしまう。
そうなれば、困るのは私だけではありません。
社員が皆路頭に迷ってしまうのです。
そこで私が下した判断は、縮小より拡大。
より高い家賃、より広いオフィスへの移動。事業開発部発足、社員増員。
一番仕事を受けることの多い会社の近くへ移動し、仕事を受けやすくする事と
周りの会社に自分たちの存在を知らしめる、見られ方を変えることが目的でした。
結果、売上げは予想以上に伸び、その後は倍増と順調に経営出来ています。
この大勝負に勝つことが出来、今の弊社があるのです。
見切り発車も悪くない
工場をやめTV業界へ。
名古屋からあてのないまま東京へ。
経験のないまま会社を設立。
この様に見ていくと、私の人生は見切り発車の連続で出来ています。
しかし、この事は決して悪い方向だけに向いたわけではありません。
やらないといけない状況に自分を追い込み、結果は付いてきた。
見切り発車の人生も悪くないな。
今ならそう言えますね。
そんな当社では、現在さらに新しいステップを踏もうと模索しています。
基本的に、この業界は依頼を受けて制作という形をとっていますが、
せっかく自信が付いた技術をもって、それだけでは物足りない。
もっと能力の出し所があってもいいのではないかと私は考えているのです。
しかし、他の事を行うには、違う畑の人の力が必要となります。
今、当社はその様な畑違いの人を呼んで、事業開発部という部署の拡大を図っています。
今までの仕事は、
ビッグネームアーティストのミュージックビデオ制作依頼が来るほどまでに認められてきました。
それは、これからも伸ばしていく部分ですが、
別の視点からのエンターテインメントを提供したいと考えているのです。
人を喜ばせる。
その手段は、映像じゃなくても構わないと考えています。
枠組みを作る
少し、他の事業についてお話いたしましょう。
例えば、皆さんが利用するカラオケボックス。
そこにも、弊社の考えるサービスが利用され始めています。
建物に映像を映すプロジェクションマッピングというものをご存知でしょうか。
そのノウハウを弊社は持っているのですが、実現には資金が必要となります。
そこで目を付けたのが、カラオケボックスでした。
曲に合わせた映像でライブ会場のようにカラオケボックスを変えてしまう。
そんな映像を流すのです。
たまたまつながった縁から、今は全国へと展開しています。
また、今後は世界へ向けた発信も考えています。
直近の計画では、マレーシアとジャカルタの民放の枠を買い取り、
弊社の作った番組を放送するというものがあります。
東京の情報をはじめとして、アジアの国々の情報をミックスしたようなものを
放送できたらと考えています。
映像制作会社は、良い作品を作って、より大きな仕事を持ってくるという事に目を向けがちです。
その様な中で、弊社は良いものを作ると同時に、
エンターテインメントの枠組みを作ってしまうというところに目を向け始めているのです。
武器をもって動き出す
仕事をするうえで、言われたことをやるということは当たり前です。
弊社の社員に求められるのは、その上のステップ。
私が求めるのは、その人の持った武器と、弊社が築いてきた事業と評価の二つをもって、
いかにして成長を遂げるのかというところです。
また、この武器、即ちその人の持つ強みというのは、弊社に限らず求められることだと思います。
起業するにしてもそう。
私にとっての映像があったように、この強みがあって動き出すという事が大切です。
しかし、その武器を手に入れたとして、出遅れてはなりません。
万全な態勢をとって、リスクを少なくして・・・・・・。
そんな話を私はよく聞くのですが、その様な理想の完成はほぼ不可能でしょう。
その準備をしているうちに、私の様な見切り発車の人間に追い抜かれてしまうのです。
まずは始める事。
動きながら修正すればいいだけの話なのです。
やっているからこそ大きくなることも出来るのでしょう。
負けないと思えば、勝ちは必然。
まずは自分の武器をもって初めて見るという事を目指してください。