代表取締役 佐藤慎太郎

代表取締役 佐藤慎太郎

設立 昭和43年
事業内容
    • 飲食店事業
会社HP http://www.taruichi.co.jp/

飲食界一筋、32歳で亡き父の後を継ぐ

それまでは、調理師学校、国税庁醸造試験所で勉強していました。
父が32歳のとき、脱サラしてゼロから立ち上げたお店「樽一」は
高田馬場でたった7坪から始めたお店が始まりでした。
創業当時は、居酒屋という文化はメジャーではなく、
東京に数店舗あるほどの小さな世界でしたが、
父の地元である宮城の地酒・浦霞との出会いから、樽一は始まりました。
私は学生時代から樽一でアルバイトをしていたのですが、
父から店を継ぐように言われたことは一度もありませんでした。
今思えば必然と父の背中を追うようになり、
飲食業界への道を選びました。
その後父が急逝し、私が後を継いだのは偶然にも、
父が創業したときの年齢と同じ32歳のときです。
何の前兆もなく、突然の出来事でしたので、途方に暮れてしまいました。
父が亡くなったのは、歌舞伎町の雑居ビルで大規模な火事があった2年後のことでしたが、
樽一は火事現場のすぐ近くにあり、
当時はお客様の足が遠のき、売上もどん底の時期でしたので、
悪いことが重なり、本当に辛い日々が続いたのは今でも忘れません。
とにかくお客様に足を運んでもらわなければなりませんので、
クーポンサイトに掲載し、認知度の向上に努めました。
当初は月間6000PVだったのですが、
現在は10万PVにまでアクセス数が伸び、
ただ安ければいい、という次元から、
何度でも足を運んでもらえる特別なお店として選んでもらえるような店舗づくりを意識しました。

樽一は、全スタッフにとっての自分の「家」である

当店が大切にしているのは、お客様をどれだけ大切にできるか、
どれだけ繋がっているかを常に意識をして仕事をしています。

スタッフは店舗を自分の「家」のように考え、
自分の家に友人が来てもらうためには、どんなおもてなしをしたらよいのか?
という切り口で考えることにより、
準備する側も楽しめるし、
おもてなしを受けるお客様にとっても、樽一ならではのおもてなしを楽しんでもらえます。

予約リストを見て、顔なじみの常連さんが来るなら、常連さん好みのお酒を用意したり、
誕生日パーティーでの予約なら、特別メニューを用意したりと、
全140席ある中の、どこまでにその「おもてなし」を演出できるかで、店舗の魅力は決まります。

カウンターのみのこじんまりしたお店ではなく、
この規模でこのおもてなしを実現させることが、当店の挑戦なのです。

初めて来店されたお客様が、
次回は大切な誰かと一緒に、その次はまた別の大切な誰かと、というように
当店が皆様にとって
「大切な人と一緒に来られるような店」
だという認識を持ってもらえることが、私たちのミッションです。

自分の「店」に来てもらうためのおもてなし

責任者が実践していることは、スタッフにも伝わりますが、
行動せず、口だけで言っているようなことは、スタッフはなかなかやらないのが普通です。
現在、当店には26名のスタッフが在籍していますが、
スタッフ全員が、ミッションに向かって仕事に取り組めるよう、
私自らが行動で実践しています。

よく、お客様からスタッフをどうやって教育しているのか尋ねられるのですが、
私から特別なことは何もやっていません。

ただ、「ここは自分の家であり、店なんだ」という意識付けをすることで、
自分の店に来てくれる特別なお客様に、
自分だったら何ができるんだろう?
と本気で考えることができるのだと思います。
私があれをしなさい、これをしなさいと指示をするのではなく、
自分から能動的に行動できるような環境を作ることを心がけています。
当店では毎月2回、お客様に向けてメルマガを発信しています。
内容は、たとえば旬のメニューを紹介したり、曜日限定の特別メニューを案内したりと、
スタッフ自らが工夫を凝らした内容で、
お客様に積極的に情報を発信しています。
ブログは私でも知らないようなメニューが載るなど、
スタッフからのサプライズも多く、
スタッフたちが自分たちで考え、おもてなしをしようという思いが伝わるような内容になっています。
大切なお客様を満足させるには、
まずは自分が納得、満足して働いていないとお客様を喜ばせることができないと思っています。
だからこそ、私はスタッフの満足を第一に考え、
スタッフの意見や考えでお客様をおもてなしができるよう、
私は見守っているのです。

父の故郷・宮城への思い

店舗で出すメニューは、宮城県産のものを積極的に取り入れるようにしています。
創業者である父が宮城県出身のため、
先代のころから宮城県産のものにはこだわって提供していました。

創業当時は輸送システムも整備されておらず、
父自ら車を走らせ、宮城の地酒や食材を東京まで運んで提供していましたね。
そこまでの苦労をしてでも、
ふるさとの海の幸と、創業のきっかけにもなった、ふるさとの日本酒を
一緒に楽しんでもらいたい思いがあったのです。

東日本大震災の影響により、取引先が津波で流されるなどの被害もありましたが、
少しづつ建て直しをはかり、徐々に提供できるメニューを増やしているところです。
震災をきっかけに、宮城県産のものに対する思いはいっそう強くなりました。
これからも、父がこだわり続けた宮城のおいしいものを提供し続けていきたいです。

父が亡くなって10年が経ちますが、時が経つほどに、父の偉大さを実感するようになりました。
父の代からお付き合いのある蔵元にお会いすると、
今でも「お父さんにはずいぶん世話になった」とおっしゃっていただきますし、
父の代から足しげく通ってくださるお客様も大勢いらっしゃいます。
まるで父が空気のような存在で、自分のことを守ってくれるような気がしています。
今後も父のこだわりを大切にし、ふるさとの味を伝え続けていきたいです。

お客様にとってもスタッフにとってもかけがえのない存在であり続けたい

東日本大震災以降、いつ東京にも地震がくるかわからない、と考え、
40年間営業してきたビル5階での営業を終了し、新宿の広いテナントに移転しました。
それは大切なお客様を守るため、スタッフを守るための決断でした。

お客様からはなぜ移転するのかたくさん聞かれましたし、
長年通ってくださったお客様が離れてしまうかもしれない不安もありました。
しかし、移転したことでお客様が減ってしまうのであれば、
それだけの店でしかなかったのだと腹をくくりました。
移転前は、新宿に2号店も考えていたのですが、
1つに絞って、自分たちの目が行き届く店にしていこうと考え、
2号店を出すのではなく一店舗のまま、現在の場所に落ち着きました。
フロアの契約からオープンまでには実に4ヶ月かかったのですが、
開店当日から店内はお客様で埋まり、無事に店舗をスタートさせることができましたし、
フロアの契約に関しても、
人情味あふれるとてもすばらしいオーナーさんに出会うことができました。
今後の目標は、連日この140席ある店舗を満席にすることです。
それを達成することで、おのずと次のステージは見えてくると考えています。
最終的な責任は自分が持つから、
スタッフには自分が考える「おもてなし」をとことん実践してほしいと思っています。
以前お会いしたお客様で、
「社会人になって、初めて上司に連れてこられた店が樽一だった。
 だから自分の定年退職の送別会を樽一でやることにした。
 社会人のスタートが樽一だったから、最後も樽一で締めくくりたかった」
とおっしゃった方がいらっしゃいました。
父の世代から40年以上やってきたからこそ味わえる、この上ない喜びでした。
一緒に働くスタッフとともに、自分も日々成長し、
樽一をお客様にとっても、スタッフにとっても、
特別な存在として末永く続けていけるように努力していきます。

「人」こそが自分の財産になる

学生の皆さんには、
いざというとき自分を助けてくれる味方がいるような人になってほしいと思います。
何か物事をやるには、色々な人の協力なしでは成し遂げることはできません。
味方がいればいるほど、チャンスは増えるし、物事も成功しやすくなります。
味方を増やすためには、周りから見ても明らかにできそうなオーラの人よりも、
「困ってそうだから力を貸してあげたいな」と思えるような人柄のほうがよいでしょう。
完璧な人間である必要はありません。
自分の弱点は人の力を借りてもよいと思っています。
実際、当店もわたしひとりではなく、スタッフ全員の協力のおかげで、
ここまでやってこれました。
樽一100年計画、ようやく半分の創業50周年が見えてきているところです。
お客様にとっても、スタッフにとっても、特別な存在であり続けるために。
樽一の目指す「居酒屋道」は皆様のお蔭でまだまだ続きます。