代表取締役社長 福野 泰介

代表取締役社長 福野 泰介

設立 2003年5月28日
事業内容
    • モバイルを中心としたソフトウェアの企画・開発・提供
会社HP http://jig.jp/

小学生のころから生粋の「エンジニア」

生まれは石川県の七尾市ですが生まれは石川県の白山市(旧、松任市)ですが、
既に4回の引っ越しを経験しました。

小さいころは割とやんちゃなほうでしたが、
小学生のときにMSXと呼ばれるパソコンを親から買ってもらったことが、
最初のターニングポイントです。

本当はファミコンを使ってプログラミングができる
「ファミリーベーシック」という機械がほしかったのですが、
実際に親が買ってきたのはMSXというパソコンでした。
最初は「これはなんだ?」と思っていましたが、子ども向けのノウハウ本を読み漁り、
独学でプログラミングを覚えていきました。

子どものころから絵画教室に通ったり、図工が得意だったりと、物を作ることが非常に好きでした。
プログラミング以外には、「ミニ四駆」も好きでしたが、
材料費がかさむわりには、自分の思い通りのものにならないことがもどかしく感じていました。

プログラミングは、試行錯誤を繰り返していくと、イメージ通りのものをつくれることもあり、
中学生になると、MSXの上位機種を手に入れ、ますますプログラミングにのめりこんでいきました。
そのころには、ノウハウ本どおりのものではなく、
自分でアレンジしてオリジナルのプログラムが組めるようになっていました。

数学や理科が得意で、進学先は高専と普通高校とで迷いましたが、
普通高校でコンピュータ以外の勉強をするのは苦痛だろうと考え、
中学卒業後は福井高専の電子情報工学科へ進学しました。

進学を蹴って挑戦した1社目の起業

高専に進学したあとは、友人の誘いで学内の地球物理学研究室に入りました。
ここでは、地震予知について研究していましたが、
ここである先輩と出会い、先輩のアドバイスのもと、地震データの解析プログラムを開発しました。

実は中学時代に、ゲーム作りを仕事にできないか考えた時期があったのですが、
私が作りたいゲームと、実際に売れているゲームはどこか違った部分が多く、
プログラミングに対して自信を失いかけていました。

その後、地震解析プログラムは研究室の先生の役に立ちましたし、
自分の成果として認められたこともあり、再びプログラミングに対しての情熱を取り戻し始めました。

また、在学中にベンチャー企業でプログラミングのアルバイトとして働くようになり、
学校にも行きながら、東京や神戸に出張してSEのような仕事まで手掛けるようになっていました。

卒業後はこの会社で働きながら、
そのうち起業できればいいか、程度にしか考えていなかったのですが、
研究室の先生から、卒業後は専攻科へ進学するよう強く勧められ、ひとまずは進学しました。
しかし、働くことのほうがおもしろく、すぐに辞めてしまいました。

2回目のターニングポイントは、ある高専の先輩から「一緒に起業しないか」と誘われたことです。
当時、渋谷エリアを中心にITベンチャーが次々と誕生し、私も起業を目指す同世代と交流していました。
そんな折でのお誘いだったことと、当時先輩が働いていた会社の社長から、
携帯電話市場での起業を勧められ、2000年にはもうひとり高専の先輩を加えた3人で最初の起業をしました。

初めての起業から2社目の起業へ

一般企業に就職することも一応は考えたのですが、
人から言われて自分が納得できないことをすることが嫌でした。

高専1年のころからプログラミングのアルバイトをしていましたが、
「もっとこうしたほうがいいんじゃないか」という仕様もたくさんありました。
結局、しぶしぶ作っていたこともあり、会社勤めは向いていないと感じました。

社長になることを意識していたわけではありませんでしたが、
自分で作ったものを世界中に使ってもらいたいという思いが強かったので、
それを実現するための手段として、起業にたどり着いたのです。

1社目では、技術担当取締役を任されましたが、
受託開発は、毎日がカスタマイズの仕事で、契約社員のころとなんら変わらない
働き方をしていました。
寝る間も惜しんで働きましたが、大した収入が得られるわけでもなく、
仕事に対してどんどん不満を感じるようになっていました。

また、3人の中で「これをやろう」という明確なビジョンが定まっていないまま
スタートしてしまいました。
3人とも何となくはやりたいことがあったのですが、それぞれが遠慮していた状態です。

自分から「これをやりたい」と提案しても、
ほかのメンバーが受け入れてくれないかもと思い、独立を決心。。
01年には2社目となる会社を立ち上げました。

ユーザーに直接サービスを届けたい!

2社目では、実際に販売することは販売会社に任せて、自分たちはどんどん新しいものを
作っていく、ということを想定していました。

しかし、当時はアプリの開発者がほとんどいなかったので、
各プロパイダに導入するため、どうしても細かい部分のカスタマイズ作業の依頼が来るようになり、
結局は受託開発の依頼が増えていきました。

そうした業務をこなすのに精いっぱいで、自社の技術検証もままならず、
当初想定していた業態とどんどん離れていってしまったのです。

これでは、1社目と同じことの繰り返しになってしまう。
そこで、自社で直接製品を開発し、ユーザーに使ってもらえる
BtoCの仕事を始めようと決心しました。

しかし、過去2社はいずれもBtoBのビジネスで、
どうやって始めたらいいのかわからず悩んでいたところ、
とあるベンチャーキャピタリストから連絡があり、意気投合。
営業面や利益面に詳しいパートナーを味方につけ、一緒に新しい会社を立ち上げることになりました。
こうして3社目となる「jig.jp」が誕生しました。

私個人のビジョンとしては、1社目のときから変わらず、
「新しいものを開発して、世界中に使ってもらう」ということです。
2社目では、どこかを介して届けようという方針でしたが、
「jig.jp」では自分たちが直接届けよう、という方針に変えました。

実際に自分たちが開発したものが、
いろいろなところで評価されているのを見かけるようになり、
自分たちのやり方は間違っていないことを確信できるようになっていきました。

ユーザーの声に応えて、改良したりバージョンアップしたりすると、
そこにもまた評価が返ってくる、という連鎖を繰り返してやってこれた、と考えています。

世界に通じる「鯖江モデル」を!

当社の強みは、ふたつです。
ひとつは、常に新しいものを作っていく、という志向の高いエンジニア集団であること。
もうひとつは、福井県鯖江市に開発センターを設けているということです。

鯖江市は昔から社長を多く輩出しているところで、新しい産業に対しては
市全体がかなり積極的です。
従来から続く眼鏡作りから派生して、高度な技術を武器にする職人肌の人がすごく多い。
そうした地場産業との連携により、非常に盛り上がりを見せている場所でもあるのです

今は、「鯖江モデル」を作って、世界中に発信していこうと動いています。
具体的には「データシティ鯖江」というWeb上で公開する情報を
多方面で利用できるようなしくみの構築を、市役所と連携して取り組んでいます。
行政として所持している情報をデータ化し、よりオープンな行政を目指しています。

今後のビジョンとしては、まずは世界に広まる新しいサービスを開発し続けるとともに、
行政が十分にIT化を図り、よりオープンになっていくため、
まずは鯖江市からそのモデルを作り上げ、広げていくということの2本柱を
展開していく方針です。

先日、日本政府が「世界最先端IT国家宣言」という発表をしました。
具体的な動きとしては、鯖江市が取り組んでいるような、オープンデータの取り組みを
全国各地でやっていこうという方針です。

当社としては、そのときに使われるようなシステムをいち早く開発しようとしています。
世界最先端ということは、使われるシステムも世界に輸出できるようになりますので、
市場もどんどん広がりを見せると分析しています。

今まではアメリカがITの最先端となる動きを見せていましたが、
先を越されないよう、取り組んでいく必要があります

学生へのメッセージ

学生のうちから、社会とのかかわりをより多く持つようにしてください。
私の場合はベンチャー企業でアルバイトをしたことで、起業をする最初のきっかけを
つかむことができました。

人から頼まれたことを実行して、感謝されるという経験こそ、社会とのかかわり
そのものです。そうした経験を通じて、自分の適性が見えると思いますので、
いち早くそうした体験を持っていってほしいと思います。

当社でも、高専生を中心に、夏のインターンシップで12名を受け入れ、
3週間程度就業体験を行い、実際に自分で開発したものを見てもらう、という
取り組みを行っています。

もちろん、学生同士で楽しく騒ぐのもいいことですが、
今はあちこちで勉強会が開催され、学生さんたちも気軽に参加できるような
内容のものも多いです。

思った以上に自分ひとりでは視野が狭くなっていますので、
そうしたチャンスを自分で見つけ、飛び込んでみる。
そこでいろいろな人と話をすることで、自分の将来が見えてくると思います。