代表取締役社長 鍜治 真起
設立 | 1983年1月29日 |
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事業内容 |
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会社HP | http://www.nikoli.co.jp/ja/ |
テニス漬けの中高生時代、そしてバイト漬けの大学生活。
私は札幌で生まれ、東京で育ち、大学へ入る頃には神奈川県の茅ヶ崎市に住んでいました。
完全な体育会系でしたね、学問とは無縁の生来の性格なんでしょう(笑)
とにかくテニスにのめり込んでいましたね。
中学、高校と授業時間以外はテニスに明け暮れていました。
始発電車で出かけて朝練習で始まり、授業の後はコートが閉められる時間まで練習していましたね。
そして高校最後の国体でベストエイトまで勝ち上がったのですが、
次の試合で対戦中に足が引きつってしまい体力負けをしてしまいました。
私の体力では、今以上のランクは望めないことを思い知らされたのでした。
人生最初の挫折でした。
こうして大学へ進学したのですが、テニスのない生活ほど退屈なものはありませんでしたね。
授業にも興味は持てず、もっぱらバイト暮らしでした。
バイトをやってみたら、そっちの方が楽しかったんです。
大学にも行かず、早朝からドヤ街近くの野毛という町でタチンボをしてましたね。
早く行って並べば、割の良い仕事にありつけたんです。
こんな暮らしを23歳までしていましたが、これが私の青春だったのです。
胃穿孔手術の看護に来てくれていた女性との結婚、そして就職。
ある日雑誌の出版社の求人に応募しました。
雑然とした活字で埋められた誌面が、好きだったんです。
でもバイトに毛が生えたような仕事でしたので、空いた時間は喫茶店のウエーターをしたり、
はたまた語学教室に通ってフランス語やギリシャ語を習ったりと、
寝る間もない様なむちゃな生活をしていました。
そんなある日、血を吐いて倒れてしまいました。
不摂生がたたって胃に穴が開いてしまったのです。
救急車でたらい廻しされたあげく応急的な手術を受けたのですが、ちゃんとした手術は6ヶ月後でした。
この間に看護してくれていた女性と結婚することになり、
生活のために紹介された印刷会社へ就職しました。
我が人生における初めてのまともな就職だったのですが、生来の遊び好きが直るわけも無く、
勤務が終わって2分後には隣の雀荘でマージャンに興じていました。
仕事の無い土日は、欠かさず競馬場通いという暮らしぶりだったのです。
そんないいかげんな暮らしぶりに、終止符を打つ日がやって来ました。
幼馴染の女友達が、アメリカから一冊の雑誌を持ってきたのです。
それが私の運命を変えた“パズルマガジン”でした。
手作りでパズルを創り自費出版、その雑誌を抱えての書店廻り。
パズルのマガジンというのは確かに日本では無さそうだとは思いましたが、
その時はすぐに忘れてしまいました。
でも、1年たったころ彼女がまた問い合わせてきたのです。
今度は私も本気になって調べてみました・・
隈なく調べましたが無かったんです・・日本には。
“無いものなら、創れば売れる”と思いましたね。
さっそく、彼女とそのお姉さんと私の3人で、パズルを創り始めました。
狙いは、“難しすぎず、簡単すぎず”というものでした。
働いていた会社で印刷し、印刷代金は3人で持ち寄って支払った後、
手にとって見たその雑誌には“定価”を入れ忘れていましたっけ(笑)
その日からですね、マージャンと別れを果たしたのは。
会社が引けてからは、リュックに雑誌を詰め込んで書店廻りを始めたんです。
置いてくれたのは10件廻って1件くらしかありませんでしたが、そうこうしているうちに、
大阪梅田のキデイランドから“100円で売っていいか ?”と問い合わせが来ましたっけ。
こうして1980年に創刊号を出したのですが、それは私の29歳の頃でした。
片手間3年の後に、3人で会社設立し現在は24名。
ふんぎりをつけたきっかけは、大手出版社が乗り込んできそうだと聞いたからです。
それまでに8号を出版していたのですが、
業界内でもパズルマガジンへの注目度が上がってきていたのでした。
せっかく作り上げてきた物が大手に飲み込まれてしまうには忍びなかったですね。
小さな部屋を借りて、3人で法人登記してビジネスとして取り組み始めたのでした。
パズルは“質”が命です。
間違って“解けないパズル”など出したら致命傷です。
幸い、それまでに多くのパズルフアンが、彼らのオリジナル作品を持ち込んで来てくれていましたので、
私たちはそれらの“質”をチェックしてから、どんどん掲載していきました。
いまでは出版物はほとんど彼らの投稿作品が中心になっています。
スタッフが創るパズルは新聞や雑誌などの媒体からの依頼に応ずるためのものですね。
ビジネスは順調に育ってくれたと言えると思います。
これまでに何回引越ししたでしょうか。
スタッフの増員に伴い、より広い事務所に移らざるを得なかったのです。
パズルは必需品ではないけれど、心の疲れを癒すパズルタイムをどうぞ。
例えば家族の介護に疲れきったひと時に、パズルに向かえばほんの“ひと時”ですが、
その辛い現実から離れて非日常的な世界へワープすることが出来ます。
立ちっぱなしの通勤電車の中でも、目的の駅までの時間の長さを忘れさせてくれるでしょう。
恋に寄せた儚い思いが破れた時にも、溢れる涙を止めてくれることでしょう。
パズルマニアでなければ解けないようなパズルではなく、
そこのおじ様も、あちらの少年も、お隣の奥様も、海外旅行へ飛び立つお嬢様にも、
誰にでも解けるちょっとオシャレな頭脳ゲーム。
初めて手にしたパズルを前に、思わず頭を傾けたときから訪れてくる癒しのひと時。
さりげなく人々のそばにあって、
“手を伸ばして下さるのを待っている”のが私どものパズルなのだと思います。
百聞は20見にしかずの時代だからこそ、若者よ外へ出でよ。
昔は“百聞は1見にしかず”で、一度見ただけでその全てを理解できたのだと思います。
なにしろ昔には、映像でみることなど出来なかったからです。
情報は文字しかなかったからこそ、実際を一度でも見ることの情報の中身が濃かったのです。
でも今の若者を取り巻く環境は、文字情報は少なくなり、映像による情報が溢れています。
どんな情報も目に飛び込んできます。
そしてそれを見た若者はこう言うのです・・“あ~それね、知ってるよ”と・・
でもそれは、数多くある情報の中の一切れにすぎないのです。
本当にその映像で見たことの真実を知りたいなら、他の角度からの映像を数多く確かめ、
20回は比較しなければ見えてこないでしょう。
そうやって椅子に座ったままで見る情報よりも、
立ち上がって、外に出て行って、現場を訪ねて、自分の目で見てきて欲しいですね。
それこそが“一見に勝るものは無い”という意味だと思います。
これからの若い人には、考えてばかりいないで外へ飛び出していく勇気を持って欲しいですね。