代表取締役 小山 励基

株式会社アベルネット 代表取締役 小山 励基

代表取締役 小山 励基

株式会社アベルネット
設立 1998年
事業内容
  • パソコン・周辺機器・デジカメ・家電等の店頭販売
  • “通信販売”PCボンバー”の運営
会社HP http://www.pc-bomber.co.jp/shop/contents/index.aspx

自分で決めて行動しろ!そんな親の言葉が今の私を作りました

私は、小学生の頃から勉強を全くしない子供でした。夏休みの宿題をほとんど
出したことがありません。中学では水泳部に入りましたが、先輩のしごきが
きつくて、すぐに退部。高校では特に部活もせず、いわゆるダラダラした学生時代を
過ごしていました。ただ、高校時代に始めたダイエーの食品倉庫でのバイトは、
4年間続けていました。そのバイトで、特に面白かったことが、一番よく働いて、
頭の切れる人が、必ずトップになっているということ。やればやったぶんだけ
認められることを、このとき初めて実感しました。だから、そういうトップに
立っている人が大好きです。カリスマ性も指導力もあって、自分も早くそうなりたい
と憧れていました。

その中で、驚いたことは、大人でも仕事をサボる人がいるということ。
私の両親は共働きでしたが、仕事を全く休まず、汗水垂らして働いていました。
その影響でサボる大人がいるという事実は衝撃的なものでした。

そんな両親はとても厳しい人達でした。「勉強しろ!」とは言いませんが、
「何でも自分で考え、自分で決めて行動しろ」という厳しさ。例えば、自転車をほしい
と言ったら、なぜほしいのか理由を述べよと言われます。「みんなが持っているから」
なんて理由では絶対に買ってもらえません。当時はうちが貧乏で親がアホなんやって
思っていましたが、今では、大切なことを教えてくれたのだと気付きました。

高校卒業後、就職。しかし過酷な労働状況に耐えることが出来なかった…

バイト三昧だった高校時代を終え、すぐに就職先を探しました。私の父は建設機械の商社で
働くバリバリの営業マンでした。父は、商社を辞めて独立した後、小さな会社を
経営していたのですが、私はそんな父をとても尊敬していました。そのため、自分も
営業職に就きたいと考え、家庭雑貨を扱う卸商社に入社。しかし、高卒でいきなり営業は
させてもらえず、まずは倉庫に配属されたのです。この部署で、3年間頑張れば
営業マンになれると上司に言われ、私は必死に仕事に取り組みました。

「必ず自分も営業マンに!」そう思って頑張っていたものの、倉庫業の仕事は、
思った以上に辛いものでした。少人数のスタッフで会社を運営し、チームワークも
まったく無い状態。また、残業代もつかないのに朝9時から夜12時まで仕事をして、
女の子なんか泣きながら仕事していました。ちょっとこれはあんまりやなと思い、
就職した年の12月に辞めてしまいました。

劇団員を経験し、その後運命の出会いを果たす

その後、スクラップ屋でバイトをし、21歳になる約2ヵ月前に東京へ上京してきました。
この頃、なんとなく役者に興味を持ち始めていました。そして、バイト先で知り合った
友人が所属する劇団を紹介してもらい、晴れて劇団員として活動を開始。劇団の生活や
お芝居は非常に面白かったです。みんな貧乏だけど、バイトしながら一生懸命
活動していました。でも、私の所属していた劇団は草野球のようなもの。草野球から
プロは生まれません。私自身は、テレビや映画の仕事も何本か出させて頂きましたが、
これはもう無理だなと辞めてしまいました。

その当時、既に結婚をしていたため、すぐに稼げる仕事を探そうと、劇団時代にバイトを
していた家電現金問屋で社員として働き始めました。現金問屋とは、売りたい商品を
持っている人と、それを買いたい人との間に立って商品を動かし、利益を頂く商売です。
いかに良い商品を見極め、安く仕入れるか、その駆け引きとテクニックの面白さに
のめり込みました。そして、この会社で、現在アベルネットの専務であり、
会社を共に立ち上げた渡邊健次氏と出会ったのです。

私は、この出会いに恵まれるまで、いくつかの職を経験しました。
すべてがうまく行ったわけではないですが、
渡邊専務に出会えたことを考えると、すべて意味のある時間だったと感じています。

「共に事業をスタートしよう」その言葉に独立を決心

独立のきっかけは、渡邊専務に「一緒に事業を始めましょう」と誘われたことからでした。
渡邊専務は、パソコンを専門的に扱っていて、個人客向けの通信販売も手がけていました。
当時、パソコンは安くても30万~40万。それをビックリするくらいの安い値段で売るので、
たくさん売れました。「これからはパソコンとインターネットの時代。絶対売れる!」。
そう確信し、2人で会社を辞め、独立しました。

1997年12月19日に前職を辞めて、20日から2人で活動を開始。年末まで働いて、
98年の1月には物件を借り、2月には小売り、通信販売、ネット販売を始めるなど、
短期間でとにかくやれることは全部行動しました。通信販売は「PCボンバー」という名前で、
ノートパソコンを中心に周辺機器全般を販売。荒利率は低かったですが、
とにかく数をこなしました。必死に仕事をした結果、物件はすぐ手狭になり、
2年目には倍以上の広さのところに移ることができました。

命の恩人との出会い

創業当時、一番苦労したことが、運営資金の調達です。創業1年目の会社なんて
誰も信用してくれないから、銀行も全く貸してくれませんでした。ところが、
ある信用金庫の上司がすごく親身に話を聞いてくれたのです。ちょうどバブル後の
不景気を解消すべく、政府が中小企業への資金対策を実行していた時だったので、
「僕が絶対に保証協会から5000万円、借りられるようにするから」と、
協力して下さったんです。本当に、命の恩人です。

このお金がなかったら、スタートダッシュは切れなかったと思います。
今、東京、大阪、仙台、博多を拠点に小売りと通信販売を展開していますが、
今後は、地域の良さをもっと出していきたいですね。もちろん東京一括で発信した方が
コストはかかりませんが、地域色をより濃く出すことで大手と差別化したいと思っています。
あとは、量販店のような品揃えを目指していきたいですね。「PCボンバー」なら
欲しいものが何でも手に入ると言われるようになりたいです。

「違う」と思ったら、変えたらええねん

若い世代に伝えたいことは、どこかの会社に入りたいと思うなら、受ける前に
その会社について、徹底的に自分で調べるべきということ。自分が一番始めに勤めた会社で
失敗したから余計に思うんです。よく想像と違う、ギャップを感じると言う
若者がいますが、、逆に「ギャップやない。お前が会社を知らんかっただけや」
と私は伝えたいです。
また、自分が本気で選んで入った会社だったら、とにかく一番を目指して下さい。
同期が何千人っていう大手なら難しいけれど、100人くらいならせめて10位以内、
5~6人なら絶対に一番を目指してほしいと思います。一番になれば、上司の見方も
社長の見方も変わります。

あとは、「違う」と思うことを変える努力をすること。先日、営業で入った子が
「なんでソニーと取引しないんですか」と聞いてきたので、
私は「お前、頑張って取引きしてくれ」と言いました。何ヵ月か後「ソニーどうや」
って聞くと、「いや、うち、無理ですね」と答えました。取引ができなかったことは
しかたありません。ただ、それを実現するためにしっかりと努力できたのかを
考えて欲しいと思いました。決して簡単なことではないし、それなりの覚悟と努力がいります。
でも、一度「変えるべき」って思ったことは忘れずに思い続けてほしい。
自分にはできないと決めつけて、流されてしまうのではなく、「違う」と思ったら、
変えたらええねん。特にベンチャー企業とかなら自分で変えることは絶対できる。
そのためには日々の努力を惜しまず、何でも挑戦していくことが大事です。