代表取締役 多部田 俊雄
設立 | 2006年3月27日 |
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事業内容 |
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会社HP | http://www.prot.co.jp/ |
部活、ライター、プログラミング、寝る間もない学生時代
高校時代はプログラミングに夢中で、学校の勉強をする暇はなかったですね。
授業中さえもプログラムを組んでいましたから(笑)
私が高校の頃は[マイコン」と呼ばれた原始的なパソコンが世に売り出された時代で、
通学コースにあった百貨店で展示品に触れたのが事の始まりでした。
当時、個人ユーザーを増やす目的で、百貨店の中に、
マイコンが使用できるフリースペースが設けられていて、
興味のある人たちが自由に使うことが出来ました。
夏休みという好条件の時には、百貨店の開店と同時に
展示コーナーに駆け込んで、閉店まで入り浸り。おかげで高1の夏の終わりには、
自分で組んだプログラムを秋葉原に持ち込んで買い取ってもらえるようにまでなっていました。
また、マイコンの専門誌に、ゲームのプログラムと自分の書いた記事を一緒に投稿し、
出版社経由で販売してもらい、ロイヤリティを頂いたり。
気がつくと月に2、30万円くらい稼いでいて…もちろん、
自分のマイコンはその百貨店で購入しました。
大学は付属の薬学部へのエスカレーター進学を目論んだのですが、
流石にろくに授業も聞いていない者が合格できるほど易しくはなく、
少し挫折して同じ大学の理学部に入学。それでも薬学系の勉強はしたくて、
授業よりもハードで高等と言われた生薬部に入部しました。
実際入部してみると聞きしに勝る厳しさで、授業に出ない日はあっても、
部室に行かない日はなく、夏休みも正月も昼夜も関係なく、
クラブ専用の実験室に365日通い続ける日々が続きました。
もちろん、学費や遊ぶお金も必要だったので、
マイコン系のアルバイトも続けていましたから、
本当に文字通り、休む暇もない学生生活を送りました。
大学4年夏、スロースタートの就職活動
高校時代はプログラミングに夢中で、学校の勉強をする暇はなかったですね。
授業中さえもプログラムを組んでいましたから(笑)
私が高校の頃は[マイコン」と呼ばれた原始的なパソコンが世に売り出された時代で、
通学コースにあった百貨店で展示品に触れたのが事の始まりでした。
当時、個人ユーザーを増やす目的で、百貨店の中に、
マイコンが使用できるフリースペースが設けられていて、
興味のある人たちが自由に使うことが出来ました。
夏休みという好条件の時には、百貨店の開店と同時に
展示コーナーに駆け込んで、閉店まで入り浸り。おかげで高1の夏の終わりには、
自分で組んだプログラムを秋葉原に持ち込んで買い取ってもらえるようにまでなっていました。
また、マイコンの専門誌に、ゲームのプログラムと自分の書いた記事を一緒に投稿し、
出版社経由で販売してもらい、ロイヤリティを頂いたり。
気がつくと月に2、30万円くらい稼いでいて…もちろん、
自分のマイコンはその百貨店で購入しました。
大学は付属の薬学部へのエスカレーター進学を目論んだのですが、
流石にろくに授業も聞いていない者が合格できるほど易しくはなく、
少し挫折して同じ大学の理学部に入学。それでも薬学系の勉強はしたくて、
授業よりもハードで高等と言われた生薬部に入部しました。
実際入部してみると聞きしに勝る厳しさで、授業に出ない日はあっても、
部室に行かない日はなく、夏休みも正月も昼夜も関係なく、
クラブ専用の実験室に365日通い続ける日々が続きました。
もちろん、学費や遊ぶお金も必要だったので、
マイコン系のアルバイトも続けていましたから、
本当に文字通り、休む暇もない学生生活を送りました。
大学4年夏、スロースタートの就職活動
気が付くと、あっという間に大学4年の夏。
当時は今ほど就職難ではなかったのですが、
それでもかなり遅いスタートの就職活動を始めました。
受けたのはやはりセガさんやナムコさん等、
今でも大手のゲーム関連企業が中心で、内定も沢山頂けましたが、
最後に受けたのが当時のパソコンのシェア9割を占めていた
NEC系列の「日本電気ホームエレクトロニクス株式会社」でした。
その頃のNECの人気度と言えば「今でいうと○○社」と
例える事もできない程の大人気ぶりだったため、
一流とはほど遠い自分の学歴では手が届くはずがありません。
「人生経験を積もう」くらいの思いで面接に臨んだのですが、
いちおう自分の記事が載っている専門誌や、
パッケージ化された作品を何本か持参しました。
それでも受かるとは思っていなかったので、
面接では「現状の御社はハードに偏り過ぎ。
ソフト思考も取り入れてバランスを取らないと、直線はともかく、
いずれ来るコーナーを曲がりきれない」といったビッグマウスっぷり。
今から思うとなかなかちゃんとした「セルフプロモーション」ができていたのですが、
まさしく諦め半分が成せたワザで、内定をもらった時は誰よりも
自分自身が驚いていました。
光ディスク市場開発室、その後一人部署の設立
入社後、私は「光ディスク市場開発室」に配属になりました。
その頃登場したばかりの「CD-ROM」は、それまで主要メディアだった
フロッピーディスクから一気に500倍近い容量があり、
それを使って新しい市場を開発しようという部署で、
生産工場まで準備中のまさに注目の事業でした。
ですが、実際に市場を模索して見るとさまざまな問題が見つかりました。
最大の問題はパソコンにつなげるための増設費で、
インターフェースカードとドライブで20万円近く。
しかも当時は「書き込み」は行えず、データをディスク化するには工場に持ち込み、
数十万円をかけて量産ラインと同じ工程でCDにするしかありませんでした。
そんな状況では非常に特殊な需要しかなく、一般市場を開拓するなど到底無理。
途方にくれていたところに、同じNECから「PCエンジン」というゲームマシンと
「いずれはCD-ROMユニットも発売」という構想が発表されました。
全く関連の無い部署の商品でしたが、これなら本当の意味での「市場」になると、
上司に無理を言ってグループ内サードパーティ的な立場で、
PCエンジン市場に参入させてもらえる事になりました。
ただ、もともと小さな部署でしたのでゲーム制作に割ける人員は少なく、
結果的に私一人だけでゲーム部門がスタートする事になりました。
入社からちょうど半年後の事です。
プロデューサー兼、ディレクター兼、広報兼、営業
それからしばらくは本当に無我夢中の毎日でした。
PCエンジンは当時主流だった「ファミコン」の性能を大きく越えた高性能が
ウリでしたので、ファミコンでは不可能だったゲームセンターの
人気作からの移植を計画。
セガさんやタイトーさん、カプコンさんなどをほとんど飛び込み状態で、
「NECがこんなハードを出しますので、是非御社のタイトルを移植させてください!」
とお願いして回りました。今でも感謝しているのは、その時に対応してくれた各社の窓口のかたがた。
入社1年目の若造の話を本当に真摯に検討して頂けて、多くの作品を許諾して頂けました。
原作となるゲームセンター用のPC基板を頂いた後は、
実際のプログラミング作業をする協力会社を決め、
データを解析したり、足りないグラフィックを自分で塗ったり。
工程が中ほどまで進むと、ゲーム画面をカメラで撮影して、
ゲーム専門誌さんに送ったり、試作品を持って全国の卸問屋さんに営業に回ったり。
ほんの2、30分の通勤時間を惜しんで会社で寝泊まりするようになり、
あきれた上司が通勤0時間を実現できる開発室兼寝床のマンションを用意してくれたり。
信じられないくらいハードな毎日でしたが、とても充実した日々でした。
そんな中「一人部署」は徐々に人数が増え…15年も経つと数十人の大所帯になり、
少しずつ自分の思いが全体に行き渡らなくなって来ました。
また、NECグループ内でも幾度かの事業編成があり、自分の部署だけでなく、
全体の雰囲気が大きく変わってきてしまいました。
サービス業としての「ゲーム屋さん」を目ざして
一作一作に注ぎ込む精神力や気遣いが、大量の仕事の中で希釈されるようになり、
些細なこだわりより、スケジュールが優先。それは企業としては当然のことでしたが、
違和感は大きくなるばかりでした。
「自分の理想とする組織とは何なのか?」「どんな作品をリリースして行きたいのか?」
そんな事を1年くらい悩み続けましたが、思い出すのはいつもこの仕事を始めて
数年目くらいのころ…ほんの5、6人で同じマンションで寝泊まりし、
同じテーブルでコンビニ弁当を食べながら、昼夜問わずに作品を作っていた時の事ばかりで。
結局、大きな組織の管理職には自分は向いていない。
下町の工場の社長&それを支える職人さん的な組織が
自分に一番向いているのだと気づいて、退職する事にしました。
今から思うと、1年も悩むような事ではありませんでした。
「町工場のような組織」とは、文字通り、私が生まれ育った下町の実家
「おもちゃ系の部品を作る製作所」そのものだったのですから。
結局、自分はDNAレベルで町工場のオヤジだったのです。
その後、当時一番お世話になっていて、今でも信奉しているPCゲームソフト業界最大手
の社長さんのお力添えもあり、平成18年3月に株式会社プロトタイプを設立しました。
ソフト会社の社名なのにちょっと工業的な響きがあるのは「町工場の職人達が
ハンドメイドで作り出す量産的でないこだわりの作品」を目指したいから。
そして最もこだわるべきポイントは「サービス精神」だと思ってます。
数千円という、決して安くないお金を払って自分達の作品を遊んでくれたかたがたに、
とても美味しい料理を食べた時のような、素晴らしいホテルに癒された時のような、
代金以上の何かをお届けしたいと、いつも考えています。
気づく力が大切~求める人物像について
求める人物像は、「気づく力を持っているかた」]そして「気遣いのできるかた」です。
お客様の望んでいることに気づき、それ以上の何かを提供してさし上げるサービス精神があること。
学生さんへのメッセージは、「無駄な努力は絶対にない」ということ。
明日は今日よりも絶対に良いと信じて、自分なりの努力を続けて頂ければと思います。