代表取締役 兼 CEO 遠藤 利文

スポーツデータバンク株式会社 代表取締役 兼 CEO 遠藤 利文

代表取締役 兼 CEO 遠藤 利文

スポーツデータバンク株式会社
設立 2003年7月
事業内容
  • スポーツスクール展開(野球、サッカー、ゴルフ、その他)
  • スポーツコーチ養成及び紹介
  • スポーツ施設の設計・企画及び運営
  • 各種スポーツに関するセミナー、スポーツクリニックの開催
  • 海外スポーツイベントの情報紹介
  • 各種スポーツ情報誌の発行及び販売
  • 各号に付帯関連する一切の事業
会社HP http://s-databank.com/

スピードスケート一筋に

北海道出身で、冬になると小学校にリンクを作るという環境でした。
小学校3年の時、滑ってみると、友達より上手く滑れたのがきっかけとなって、スケートを本格的に始めます。

それなりの成績を出していたのですが、小学6年の時、コーチから
「オリンピックを狙えるかもしれないから、頑張れ」と言われました。
今考えると、体が大きかったから好成績が出ただけで、何の根拠もなかったのですが、
コーチの何気ない一言が、大学までスケートを続ける原動力となりました。

高校はスポーツ留学が経済的に難しく、地元の高校に進学しました。
スケートが出来ないので、くさっていたところ、陸上部の顧問から、陸上を勧められ、
インターハイに出場したりもしました。高校ではスケートをしなかったものの、どうしてもあきらめきれず、
大学は日本体育大学に入学して、スケート部の門を叩いたのです。

ただ、同期はみな、インターハイの優勝を経験しているような選手ばかりで、
3年間のブランクもあり、ウォーミングアップですら、女子選手について行けないような状態でした。

そんな状況のなかで、元オリンピック選手に、
「1位でも100位でも、頑張ることに意味がある」と言われました。
その人は、100位でも価値があると励ます意味で言葉を掛けてくれたと思うのですが、
オリンピック出場しか頭になかったので、「オリンピックには出られない」と宣告されたように思い、
ショックでした。この一言で、「スケートはもういい」と思い、断念することに決めました。

この人の言葉も、小学生の時のコーチの言葉も、何気ない一言だったのですが、
人の人生に大きく影響するということを身を持って体験しました。
これが起業するベースとなったのです。

トレーナーを目指して

スケートを断念した頃に、トレーナーという職業が米国にあると耳にします。
アスリートのけが予防や体づくり、リハビリを担う専門職です。
「これは面白い。将来伸びる」と思いました。

独学で学生時代から勉強を始めましたが、資格を取るのなら、米国しかない。

留学するお金を貯めるため、就職しないで、2年間、自動車の期間工をしていました。
寮生活だったので、1日の食費1000円以外は使わず、2年間で750万円をためました。

このお金を手に留学し、米国には結局、5年半滞在しました。
ただ、お金は2年ぐらいであっという間になくなってしまったのですが、
学生ビザなので、アルバイトもできません。

考えた末に、親しい米国人を代表にして、個人輸入の代行業の会社を設立しました。
無料のカタログを日本に送り、注文があった商品を購入して日本へ発送するのです。
手数料をいただくのですが、元手がかからないので、それなりに稼ぐことができました。
これが、初めての起業です。

留学した当時は、トレーナーの資格を持つ日本人は2、3人しかいなかったのですが、
留学中に、資格を取ろうという日本人は300-400人にも増えていました。

帰国後はプロの球団のトレーナーになりたかったのですが、難しくなりつつあったので、
これ以上、時間とお金を費やして資格を取るのは無駄だと思い、帰国を決めました。
起業してみて、ビジネスも面白いと思ったことも帰国を決めた理由の一つです。

野球の世界へ

帰国してからは、テーピングテープの並行輸入を始めました。
借金して、米国から大量にテープを買ったものの、全く売れません。
1ルームマンションの壁が全部段ボールで埋まってしまい、その中で寝起きしていました。

借金の返済も始まって、学生相手に細々と販売しているぐらいでは、自分の生活費が捻出できません。
仕方なく、夜は佐川急便でアルバイトをし、昼間はテープを売るという生活が1年ほど続きました。
寝る間もないし、きつかったですね。

バイトの時にたまたま、トレーニングの勉強をしていたと話していたら、佐川の軟式野球部で
トレーナーを捜しているというのです。こんなチャンスはないと、佐川のトレーナーになりました。

佐川急便の野球部は、天皇杯や国体に出た実績のあるチームです。
中には、ドラフトにかかる選手もいました。

選手を見ていると、肩や肘をけがして、プロになるのを断念した選手が多いのに驚きました。
早い子では、小中学生の時に故障してしまっている。
昔は連投など無理をさせていたし、ボランティアのおじさんが指導するのですから、
仕方のない面もありました。
でも、小中学生の時に、しっかり指導しないと、せっかくの才能を持った子ども達が潰れていってしまいます。
けがをしないようなトレーニングをするジムを作りたいと思い、独立することにしました。

バッティングセンターで野球教室

最初は、グラウンドを借りてスクールをやろうかと思ったのですが、
国の施設を営利企業が使うことはできないことが分かります。
スクールは放課後なので、照明設備も必要です。
それなら、と目を付けたのが、バッティングセンターでした。

これは、野球界の常識をあまり知らなかったから、できたことでした。
野球関係の人は、「バッティングだけ教えてお金はとれない」
「投げたり、守備も練習する必要がある」と、皆、否定的でした。

でも、イチローも小学校時代にバッティングセンターに通ったというし、
自分の息子が野球をやりたいと言ったら、やはりバッティングセンターへ行きますよね。
自分の意見を信じて、スタートしました。

最初は、生徒1人にコーチが2人でした。
3ヶ月たっても伸びなくて、頭を抱えていたら、ある日突然、打撃が変わったのです。
打率1割の生徒が、7割5分打てるようになりました。
基礎が出来ていなくて、くせを直すのに3ヶ月かかったんだと思います。

生徒が10人ぐらいに増えるまでには時間がかかりましたが、
その後は評判を呼びクチコミなどで、現在は150ヶ所以上で4000人弱の生徒を教えています。

子どもに成長する喜びを

当社の会社のビジョンは、
「すべての子どもたちに、スポーツを通じて健康と成長する喜びを与えていこう」です。
そのためには、資金が必要だし、会社として大きく利益を上げないと、理念を達成できません。

NPO法人にするという手法もありますが、利益を出して、次の展開をしていかないと、
より多くの子どもに成長する喜びを伝えることはできません。
だから、スタッフには、堂々と儲けようと言っています。

そして、子どもの良いところを見てあげなさい、とも言っています。
日本の指導者は、マイナス面ばかりを指摘しがちですが、
良いところを評価して、小さな成功体験を大切にさせたいのです。

全く打てなかった子のバットに、球がかするようになったら、
その子にとっては、非常に大きな一歩なのは間違いありません。
それを評価してあげれば、必ず、次の段階へ成長していきます。

野球スクールは数多くありますが、うちは、打率を上げるためのスクールではなく、
バッティングを通して成長する喜びを体験させ、将来、社会に出たときにその経験が
強みになるという点が、他のスクールとは違います。

壁は乗り越えられる

スポーツは、いくら練習しても伸びず、壁にぶつかる時期があります。
悩んで、試行錯誤するその時期が、実は、人間として成長している時期ではないかと思います。
だから、そこで止めないで踏みとどまると、壁は乗り越えられるものです。

就活も、つらいからと逃げないで、踏みとどまれば、必ず先は見えてきます。
50社回ってダメでも、次の50社にトライしてほしいと思います。