代表取締役社長 三村 偉一朗

株式会社三村運送 代表取締役社長 三村 偉一朗

代表取締役社長 三村 偉一朗

株式会社三村運送
設立 昭和40年3月30日
事業内容
  • 精密機器・精密機械の混載輸送
  • 全国長距離輸送
  • ルート・チャーター・スポット輸送
  • 倉庫保管・荷役及び商品管理業務
  • 梱包発送
  • 上記業務に関わる企画・立案・コンサルタント
会社HP
http://www.mimura-unsou.co.jp
http://www.rammy-pack.com

精密機器・精密機械輸送という『特化サービス』

当社は現在、医療機械や検査機械といった精密機械・精密機器中心の輸送業を行っています。
精密機械の中には一台で数百万、時には億単位の価値があるものもありますし、
何よりデリケートな商品であるゆえに、輸送には最新の注意を払わなければなりません。
普通の宅急便で送れるような品物ではないのです。

 従来はそういった精密機械を運ぶためには、機械のサイズにかかわらずトラックをチャーターするのが常識でした。
しかしそれではムダなコストが掛り過ぎる。そこで当社は『精密機械・精密機器輸送』に特化し、
精密機械だけを運ぶことで荷物の積み合わせを可能にし、コストダウンに成功しました。
また、梱包や設置等も専門のノウハウを持つスタッフが行い、輸送を通して日本のものづくりを支えています。

子供のころは

当社は昭和28年、祖父の代に創業し、昭和40年に法人化しました。私は3代目になります。
しかし、最初から会社を継ぐことが決まっていたというわけではありません。
小さい頃はいずれは継ぐのだろうなと朧気に思っていましたが、
父はむしろ「継がなくていい」と言っていました。父の代ではとんでもなく波乱万丈でした。
得意先の倒産により売上が90%落ちたり、父自身が大病したり……
子どもの私が見ていてもそんな状態でしたから、実際はもっと筆舌に尽くし難いことだらけだったと思います。
あまりにも試練の連続だったからでしょう、両親は
「こんなに大変な思いをするぐらいなら継がないほうがいい」とよく私に言っていました。
ただ、私自身は父の言葉をそのままの意味だけではなく、
『自分の人生は自分で生きていけ』というメッセージと捉えていました。

アートと家業を繋いだ30ヶ国

学生時代の部活はスポーツの他、美術に深い興味を持っていました。その流れで大学に進学。
卒業後はアート関連の仕事をしようと考えていました。
ところが、いざ就職の時期が近づくと、父が会社を継いでほしいと言うようになったんですね。
父も年を取ってきて、息子に会社を継がせたいという気持ちが強くなってきたのでしょう。
しかし私はすでにアート系に進むことを決めていましたから、
突然そんなことを言われても急には転換できませんでした。
そこで、まずはアートにしっかり関わろうと、イギリスの美大に留学したんです。
アート系の仕事をしつつ、あちらで勉強を続けていました。
しかし、1年後に再び父から会社を継いでほしいと言われまして……
正直あまり気乗りがしなかったのですが、一旦帰ることにしました。
でも、どうしても普通に帰る気にはなれなかった。

そこで、普通は飛行機を使うところ、陸路と海路を使い、10ヶ月かけて帰るという手を使ったんです。
ヨーロッパや地中海の国からアフリカ、アジア等、先進国から発展途上国まで合計30カ国ぐらいを回りました。
貧困にあえぐ国の現状も目の当たりにしました。しかも、旅の途中で湾岸戦争が勃発したんです。
あの時は流石にまずいと思いましたね。
旅先では、本当に様々な人種、環境、考え方の人に出逢いました。
あの多種多様な出逢いを経験したことが今も私の大きな財産となっています。
そして、旅をしていく中で、アートの道ではなく、父の会社を継ぐことを決意しました。
振り返れば、直接飛行機で帰らず旅をしたのは、覚悟を決めたかったからなのかもしれませんね。

人脈から特化サービスへの転換

紆余曲折を経て、25歳で会社に入り、取締役を経て38歳で代表取締役になりました。
代表になってまず考えたのは『これからの会社の方向性』です。
私は代表になる前から、会社の現状は把握していましたし、問題点も掴んでいました。
当時はいわゆる下請け的な仕事が多く、大荷主さん頼りの部分が非常に大きかった。
それらの依頼は父や祖父が創り上げてきた人脈からのもので、いわゆる『人間』の繋がりが中心でした。
それは決して悪いことではないのですが、私はそれだけでは今後は難しいのではないかと感じていました。
どんなに人脈を築いても、人は年を取り世代交代していくし、世の中も変わっていきます。
人脈はいつか切れてしまうものなのです。だからこそ、これからは人脈ではなく、
サービスで勝負しなければという想いがありました。
しかし、普通の方法では並み居る大手の運送会社にはとてもかないません。

では、どうするか?たどり着いたのは『特化すること』でした。
そして着目したのが『精密機械・精密機器輸送』。
当時、大荷主様の中に精密機械を取り扱っている会社があったため、
当社には精密機械・精密機器輸送のノウハウが蓄積されていました。
このノウハウを最大限に活用したのです。
意外と知られていませんが、商品にはその商品に合った運送方法があります。
商品によって特徴も気を付けるべき点も異なりますから、自ずと運送方法も、
使うトラックも梱包などのノウハウも変わります。
運べればどんな方法でもいい、というわけにはいかないのです。
しかし、それまで『精密機械・精密機器輸送』の混載輸送に特化した運送会社はほとんどありませんでした。
私はそこにチャンスを見出し、特化するためのビジョンを考え出し、社員に広めていきました。

運送のプロがものづくりを支える

日本は世界トップクラスのものづくりの国家であり、
特に精密機械・精密機器の技術は目を見張るものがあります。
精密機械はその製品に価値と技術、そして作り手の想いが凝縮されています。
そんな日本の叡智と技術の結晶を運ぶのですから、
運送会社にもプロのノウハウと矜持が求められるのは自然なことです。
作った製品を安全に届ける『精密機械の輸送のプロ』がいれば、企業は安心してものづくりができます。
作るプロがいれば、運ぶプロがいる。
だからこそ、私たちは『精密機械・精密機器輸送』に特化し、精密機械・精密機器を作る企業が
安心して品物を任せられる環境を作る。輸送という手段で日本のものづくりに貢献し、
日本を豊かにしていく。これが私の考えたビジョンです。
「何でも運ぶ」ではなく「これだけを運ぶ」への大きな転換でした。
 もちろん、最初は社内に戸惑いもありました。数十人の社員がいますから、
新しいビジョンにすっと馴染む人もいれば、なかなかギアチェンジがうまくいかない人もいました。
 そういった社員には、何度も何度も粘り強く語り続けていきました。繰り返し熱意を伝えることで、
違和感を感じていた社員も少しずつ理解してくれるようになっていったのです。

 社長自らそこまでする必要はないのでは、と思うかもしれません。
 しかし、今までとは違う展開をするのですから、社員全員が一丸とならなければ始まりません。。
「何のためにこの仕事をしているのか」というビジョンが浸透すると、会社の空気も変わり、
勢いがついてきます。何より、自分たちの仕事に誇りを持てるようになるのです。
 そして、社内の士気を高めた後、ビジョンから
『精密機器・精密機械を作る人が求めるサービス』を次々に考えだしていきました。
 今では大手企業から小口のお客様まで、毎日のように新しいお問い合わせが入ってきます。
特化して良かったと心から思います。

事業領域の拡大、そして被災地支援

今、当社では精密機械・精密機器輸送を専門にしていますが、
他にも『通常の運送会社や宅急便業者では扱わない品』を
『通常の料金や運送方法ではないやり方で運べるようになりたい』というのが夢です。
例えば美術品、骨董品等ですね。これらも小さな形に価値が凝縮されており、
取り扱いにはプロのノウハウが必要です。もともとアートの道に進みたかった私ですが、
いつか運送会社としてアートに関われたら嬉しいですね。
そしてもう一つ、東北の支援です。東日本大震災により、東北のものづくりが大打撃を受けました。
東北には素晴らしいものづくりの工場がたくさんあり、私たちも関わらせていただいていました。
何か被災地のお手伝いが出来ないかと、私たちも被災地に物資を運んだり、
復興プロジェクトを立ち上げたりしています。また、今後は被災地への医療機器輸送などの仕事も増えてくるでしょう。
『運ぶ』という立場から、一刻も早い復興への手伝いが出来ればと考えています。

違うからこそ意味がある

日頃から社員にも言っているのですが、とにかく「人と違うことをしよう」と心がけてほしいですね。
皆と同じ行動をするのは平和かもしれませんが、横並びは必要ないというのが私の意見です。
好きなこと、これだけは負けないというものをつくり、ビジョンを打ち立てる。
人と違うことがアイデンティティーになり、それが人から認められるようになるのです。
当社も『精密機器・精密機械輸送を通じてものづくり国家日本に貢献する』というビジョンを確立し、
社員が一丸となってから一気に事業が展開しました。小さな企業こそ、何かに特化し、突き抜けることが大切です。
もちろん、違えば何でもいいかというとそうではありません。
社会人としてTPOとバランス感覚もまた大切です。
「人と違っていいんだ」という気概を胸に、自分自身を突き抜けさせてください。