フリーアナウンサー 岡本 るみ子
フリーアナウンサー 心理・表情学研究家 | |
事業内容 |
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会社HP | http://www.facialmicroexpression.com/ |
私を支えている1人の少女の存在
私の人生の中で、とても大きな存在になっているのは小学校の時に他界してしまった幼馴染みです。
長崎出身で、お父様のお仕事の関係で東京に引っ越してきた時に出会いました。
彼女は被爆2世で、生まれた時から皮膚がんを患っていたんです。
病気の影響で、身体中に斑点があり、そのことでいじめられることもあって…
でも、とにかく天真爛漫で、笑顔の素敵な子でした。
彼女と私はテレビやラジオが大好きで、2人でユニットを組んで歌を歌ったり、踊ったりして、
それをテープに吹き込んで遊んでいました。
その頃から、いつかはテレビやラジオの世界で働きたいなと思っていたのかもしれません。
彼女が地元に戻ってからは文通をしていました。
でも、小学5年生の年末に、彼女は亡くなってしまったんです。
初めて親友の死に直面して、何ともいえない悲しみ、恐怖に直面したことを覚えています。
でも、そのときからどんなに辛いことがあっても彼女だったらどうしていただろう、
彼女だったらどう思うだろう、どう乗り越えるだろうということを考えるようになりました。
彼女は私が今、出来ること全てを経験することができないまま、
この世を去らなければならなかったんだと思うと、何が起きても乗り越えていける。
彼女の分も私が生きるんだという思いが、ずっと私を支えているんです。
バレーボールとの出会い
幼少の頃から好奇心旺盛で、いろいろな習い事をさせてもらえました。
特に小学校から始めたクラリネットは長い期間、続けました。
地域の吹奏楽団にも入り、地域の姉妹都市交流の一環で、カナダで演奏会をする機会にも恵まれました。
でも、1988年に開催されたバレーボールのワールドカップをテレビで見ていて、
当時、全日本でセッターをつとめていた中田久美選手に魅了されてしまったんです。
そして、中学校では、バレーボール部に入りました。
最初は吹奏楽団とバレーボール部を両立していたのですが、
演奏会と強豪校との試合の日が重なってしまったことがあったんです。
すごく迷った結果、バレーボールの試合を選択したんです。
それからというものの、バレーボールで成績を残したいという思いで、大学までずっとバレーボールを続けました。
選手を裏方で支える立場に
大学はバレーボールを続けながら、将来的にその経験を活かせるような勉強ができるところをと考えて
当時、日本で唯一スポーツマネジメントを学べる学科に進みました。
大学でもバレーボール部に入ったのですが、体育会系で、とてもレベルが高く、厳しいところでした。
全国レベルの選手ばかりだったのでスタメンどころか、ベンチ入りさえ容易なことではありませんでした。
それでも、何かチームのために貢献できることはないかと悩んでいた時に、
学連という大学のバレーボール連盟のスタッフを勧められました。
学連は各大学のチームとバレーボール連盟のパイプ役で、主に大会運営などを行う学生組織です。
関東の学連は全日本の学連も兼務していたので、全国で1200校ほどのチームをまとめる大きな組織でした。
学生でありながら貴重な社会経験を積むことができました。
4年生の時には関東学生女子連盟の委員長も務めさせて頂けました。
自分ではそんな器ではないと思っていましたが、チームに支えてられて、
大役を果たすことができたと思っています。
フリーアナウンサーとして社会人生活をスタート
実は今の仕事のきっかけは、学連時代に務めた大会アナウンスでした。
緊張感のある中で伝えることに何とも言えない感動を覚えて、これは天職だ!と思ってしまったんです。
それから、アナウンス学校にも通い、司会やMC業を始めました。
そして大学卒業後、アナウンス事務所に所属して、フリーアナウンサーとして仕事を始めたんです。
おそらく、普通はどこかのテレビ局やラジオ局の正社員になってアナウンサーとしての経験を積んでから
フリーになって働くということが多いと思いますが、とても私は恵まれていました。
でも、初めてレギュラーのお仕事が決まったのは、関西を中心に展開しているテレビラジオショッピングコーナーでした。
喋りを極めたいと思ったときに、噺家である落語家やしゃべりの達人である
芸人の方々が集中している関西で学びたいと思っていたので良い機会でした。
はじめは温かく迎え入れてもらいましたが、社会人1年生でフリーアナウンサーになった私には
未熟さや壁にぶつかる思い通りにいかないことばかりでした。
よく周囲をハラハラドキドキさせて、冷や汗をたくさんかかせていたと思います。
でも、本当に周囲の皆様がいたからこそ今の私が在ると言っても過言ではないくらい感謝してます。
その後、アナウンサーとしての幅を広げたいと思い
東京の通信社のニュースアナウンサーのオーディションを受けて合格し、
2005年からは、経済アナウンサーとして働き始めました。
政治経済は自分が苦手としている分野だったので、覚悟はしていました。
思ったとおり、勉強、勉強の日々でした。
それでもアナウンサーとしてニュースがしゃべれること、
通信社なので世界中のニュースが秒単位で入ってくることに、すごくやりがいを感じていました。
表情筋トレーニングと出会い、今はそれを伝える立場に
今は通信社でのお仕事と並行して、表情筋トレーニングセミナーの講師として
様々な場所でお話をさせていただいています。
表情筋トレーニングに出会ったのは、私自身が、メンタル面でバランスを崩しそうになった時でした。
先輩たちの話や、自分でもいつか海外で仕事がしたいなと思っていたので、
シンガポールに単身渡ってDJの仕事をしたことがあります。
初めてのワンマンDJスタイルだったので、想像以上にハードで、
選曲やしゃべること以外に、編集やミキシングを全て1人でこなさないといけなくて。
生放送中に、機材が動かないというトラブルが発生したりと、自分の思うような納得いく放送もできなく、
伝えたいことも十分に伝えられなくて、リスナーにも心配をかけてしまう、
私何してるんだろう、自分が今までやってきたことは何だったんだろうと
負のスパイラルに迷いこんでしまったんです。
そんな時に、世界一の心理・表情学研究者のポール・エクマンの存在を知りました。
直接ポール・エクマン教授にメールを送ると、
ちょうどシンポジウムでシンガポールに来る機会と、たまたま重なって会うことができたんです。
それから、勉強を始め、彼の理論を元にした独自の表情筋トレーニングを開発しました。
そして帰国し、今ではメンタルヘルスと表情筋トレーニングを組み合わせたセミナーや講演の仕事もしています。
表情学は日本ではまだ馴染みが浅いですよね。
簡単に説明しますと、表情筋って顔に30種類以上あるんですが、
それを自分で知って、筋肉を動かすことを意識して正しい表情で人とコミュニケーションを測りましょうということです。
表情には心の状態がそのまま表れるので、精神疾患予防にも繋がります。
日本の精神疾患発症率は上昇する一途なので、社会に貢献できればという思いでやっています。
詳しいことはホームページをご覧頂けましたら幸いです。
就職内定率が過去最低記録を更新する現代社会だからこそ、
学生の皆さんには表情筋トレーニングを是非活用して、就職活動を乗り切ってほしいですね。
面接官の前で、良い緊張を保ち、自信をもって、正しい表情で、
ありのままの自分をアピールすることが出来るようになります。