代表取締役社長 坂口 信貴
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設立 | 2004年6月30日 |
事業内容 |
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会社HP | http://abee.co.jp/ |
スポ根野球とアルバイトにあけくれた学生時代
私は群馬県の桐生という田舎町の出身ですが、
当時桐生は「球都」と呼ばれるほど野球が盛んで、
私も中学卒業までのあいだ野球に夢中でした。
特に小学生の頃は、
県でも有数の常勝チームでエースピッチャーをしていましたが、
目立ちたがり屋の当時の私は、花形ポジションのピッチャーができて、
しかも勝ち続けることができたことが快感だった。
中学では一年のうちから投げる機会を与えられ、
二年の秋からはエースとして、
また主将としてチームを率いるようになりました。
しかし、この頃から肩に激しい痛みを感じるようになります。
このまま続けていれば、いつか確実に肩が壊れるという予兆でした。
それでもエースとして、また主将としての責任から、
肩のことは誰にも言えませんでした。
中学生という身分で試合のたびに痛み止めの注射が打てるはずもなく、
その代用として市販の鎮痛消炎剤を肩の感覚が麻痺するまでスプレーして、
無理やり投げ続けていました。
そして中学最後の夏、私の肩は完全に壊れました。
「俺の野球は終わった」と思った瞬間でしたね。
名門高校の野球部からもスカウトされましたがお断りしました。
野手にコンバートすれば、まわりの球友と同様、
甲子園にも行けたかもしれませんが、
ピッチャー以外で野球を続けるイメージが私にはできませんでした。
高校では、県内有数の進学校に入学しておきながら、
大学へ進学する気は早々に失っていました。
一流企業で自分が働くことをイメージできなかったし、
周囲が言うほど大学が楽しそうにも思えなかった。
そして何より、目的がはっきりしないまま机に向かうことができませんでした。
高校の3年間は、勉強することも放棄してアルバイトばかりしていました。
当時はとにかくお金を稼ぐことにひたすら興味がありましたね。
働いてお金を稼ぐことに喜びを覚えた私は、ガソリンスタンドやピザの宅配、
産廃処理に化粧品のセールスと、
高い時給さえもらえればとにかく何でもやりました。
あの頃は、仕事の内容ではなく報酬額が仕事選びの基準でした。
将来の”起業”という必然的なビジョン
私には、「30歳までに社長になる。」という想いがありました。
17歳の頃からそう考えていましたが、当時は起業する業種は何でもよかった。
高校卒業を目前にして何をやろうか考えた末、
父親とも話し合って自動車整備の業界に進むことを決め、
東京都内の民間整備工場に見習いで勤め始めました。
当時、父親が運送会社の役員をしていたことも大きく影響しているのですが、
自動車整備の技術、業界のノウハウがつかめれば、
最短で起業できると思ったんですね。
そして2年間見習いとして働きながら整備士の夜間学校に通い、
整備士資格を取得した後、
次は大手トラックメーカーのディーラーに転職しました。
民間工場とディーラーの違いを知ることが
将来の起業へのステップと思っていましたから、
この転職は私にとって自然な流れでした。
ディーラーの整備士として1年近く働いた後、
自動車部品の管理や販売をする部品課に異動になりました。
ディーラーの部品庫には、どれだけの部品が在庫され、
需要がアクティブな部品はどのようなものか、部品の価格はどれほどか、
そこには将来の起業にプラスになる情報がたくさんあると感じていましたし、
また、当時いた支店はグループでも特別業績が悪い支店だったため、
ここをレベルアップさせることができれば、
自分の働きがダイレクトに数字に表れると思ったんです。
競争大好き、一番はもっと好きという私の性格を大いに刺激してくれました。
そこから約1年で支店の評価を大きく上げるだけの結果は残しました。
支店長、本社の一部の役員からはお褒めの言葉もたくさんいただきました。
でも、言葉以上の見返りは私にはありませんでした。
「うちは大手だから。」
「年功序列だから・・・」
そう言われました。
そんな矢先、起業後の安定収入源として当てにしていた運送会社を
父親が辞めてしまい、また、大手に勤めたことによって、
民間整備工場の厳しい経営事情を知ってしまったこともあって、
この頃から自動車整備以外の起業プランを考えるようになり、
ディーラーを退職しました。
30歳で会社設立へのターニングポイント
22歳でディーラーを辞めた私は、
1台の小さなトラックを元手に精密機器、医療機器などの
輸送に特化した運送業を個人ではじめました。
運送業の三大経費は人件費、燃料費、車両修繕費と言われますが、
車両の修繕がおおよそできるようになっていた私は、
運送業には勝機があると当時は考えていました。
私が運んでいた荷物は、輸送や荷扱いに極度の神経を使う品物だったため、
他者は手を出したがらず、
同じ荷量でも普通のトラックの3倍ほどの稼ぎがありました。
しかし、荷扱いが難しいため、私以外のドライバーのなり手がなく、
この仕事にチャンスを感じる反面、
起業後のビジネスの成長性に難しさも感じていました。
そんな矢先、この仕事をいただいていた会社の専務から
トラックを降りて欲しいというオファーがありました。
23歳の冬の事でした。
ここで作るPCパーツを販売する子会社を設立するので、
その会社の一員として営業に携わって欲しいと言われ、苦悩した末お受けしました。
これがPCの業界に足を踏み入れたきっかけです。
当時時代はWindows98ブームの真っ只中でした。
ここでの経験が自分にとって大きなターニングポイントだったと思います。
会社は順調に成長し、入社から約3年でグループ最年少の取締役に就任しました。
そして、部下が約40名になる頃には、
私にとってお金は単に私利私欲を満たすものから
仲間と夢や楽しみを共有するための投資的な要素を強めていきました。
数年後、少しずつオーナーとの経営方針に
ズレが生じてきたこともあり退職を決意し、
周りからの多くの後押しもあって現在のアビーを起業しました。
30歳になった年、前職のときに私の下で働いてくれた仲間や
高校時代の友人数名と一緒にアビーはスタートしました。
起業当時は、一般的な感覚で言えば、かなり過酷な環境だったと思います。
月曜日に出社したら週末まで泊り込みが当たり前。
毎晩明け方まで仕事をし、デスクの脇で寝袋に包まって数時間眠る。
起きたらまたすぐ仕事をする。お腹がすいたら特売の食パンをみんなでかじる。
そんな生活が1年以上続きました。
それでも、そんな環境が「苦労」だと感じたことは1度もありませんでした。
起業するからには、1〜2年はそれくらいの環境が当たり前だと思っていましたから、
こうなることは予定通りだったんです。
これは持論ですが、苦労って予期せぬことが起きた時に
はじめて感じるものだと思うんです。
アビーの強み
当社の強みをひとつ言うとすれば「変わり身のはやさ」だと思います。
アビーはファブレスのメーカーですから生産設備は持たない。
製品の生産は外部に委託するので、
設備に影響されたモノづくりをする必要はないわけです。
ユーザーが今欲しいもの、これからの時代に必要とされているものを
“企画すること”がアビーの本業です。
商品を企画して、売り方を企画して、販路を企画する。
ここの軸が定まってしまえば、仕事の大半は終わりです。
ここまでの意思決定がどこまで速く、そして適格にできるかが肝要です。
大手メーカーは製品を発売する前から多くのユーザーを抱えています。
言い換えればそれがブランドであり、
そのブランドがあるから市場競争で優位に立てる。
その一方で、そのブランドがあるから型から抜けられなかったり、
抜けるのに時間がかかる、それがウィークポイントにもなりえるわけです。
当社にはその型がない。だから、時代の流れに合わせて変化することができる。
それがアビーの強みですね。
仕事はクリエイティブでなければならない
戦後の高度経済成長期から日本は「モノづくり」を基幹産業としてきましたが、
今や東南アジア・中国にその拠点は移り、価格で太刀打ちすることは難しい。
長い年月をかけて成熟された製造の技術やノウハウが、
簡単に海を越えていく時代ですから。
だからこそ、これからの日本のモノづくりは、
今まで以上に日本人そのものを投影するものでなければならないと思います。
日本人しか持ち合わせていないきめ細やかな思想、
そして何より日本の長い歴史、豊かな文化というバックボーンがあるからこそ
醸成された独自の創造は、他国が短い期間で真似できるものではありません。
ただ、それにはクリエイティブに最適な環境設定がとても大切で、
従来型の企業の常識に縛られず、
個人がもっと自由にクリエイティブできる環境が必要だと思うんです。
発想そのものが貴重な仕事であり、それに伴う物理的な作業はそのフォローに過ぎない。
職場に来て、決まった時間業務をこなすことが必ずしも仕事ではないんです。
だからこそ会社は、スタッフが新しい発想を生み出しやすい環境であることが重要であり、
極論的な言い方をすれば仕事と遊びの境界線が曖昧であっていいと私は思います。
ラッキーな時代に生まれてきたから、ラッキーに生きればいい
大学生の皆さんも、そして私たちもこの日本で生まれ、
そしてこの時代に生まれたことをもっと幸運に思うべきだと思います。
世界に目を向ければ、仕事を選べない環境はおろか、
身の安全や明日の食糧が約束されていない国や地域に
いる人たちはたくさんいるわけですから。
だからこそ、もっと自由に、ラッキーに生きればいいと思うんです。
就職がゴールではありません。
大事なのは自分の好きなこと、夢中になれることが何かを知ること。
自分の好きなものに根差した仕事をするほうが、
モチベーションをもって楽しく仕事ができるはずです。
どうせ今の時代、リスクなしの安定企業なんてどこにもないのですから。
例えば、野球好きのすべてがプロ野球選手にはなれない。
でも、野球用品を製造する会社もあるし、球場運営の会社もある。
野球が好きでたまらない奴が野球の道具をつくったら、
きっと素晴らしいものができる。
球場運営をすれば最高の球場ができる。私はそう思います。
仕事は趣味や遊びの延長でいいんです。
楽しくなければ続かない。
8時間のプライベートを楽しむために
つまらない仕事を8時間我慢するなんてもったいない。
仕事を楽しめれば、プライベートの時間と合わせて16時間も楽しめるのだから。
仕事を楽しんでいる人ほど質の高い仕事をするし、
必然的に周囲からも認められるようになると思います。
会社なんて所詮「器」でしかない。主役はそこで働く「人」。
器が人を大きくするのではなく、人が器を大きくするのだと思います。
皆さんも自分の楽しさを追求してみてください。
それが結果的にいい方向へ繋がるはずですから。
変わり者と言われたもん勝ち
私からみなさんにアドバイスできることは、
「もっと個性を出したほうがいい」ということです。
「変わり者」は最高の褒め言葉です。
これから仕事をしていくみなさんには、
必ずと言っていいほど”マニュアル”がつきまといますが、
そのマニュアルがすべてではないと思ったほうがいい。
時にはそのマニュアルを疑うことも大切です。
仕事って自分の性格にあったやり方が必ずあるし、
ゴールに向かうための筋道もきっとたくさんありますから。
新しい筋道は、人の真似をしているだけでは見つかりません。
ただ、勘違いしてほしくないのは、基礎を身につけず、
いきなり独自性を出してほしいということではありません。
セオリーを知り、セオリーを疑う。それが大切です。
そして最も大切なことは「実行すること」です。
新しいアイディアには大した価値はないというのが私の持論です。
重要なのは、そのアイディアを実行し、具現化すること。
それこそが価値のある仕事であり、かっこいい仕事だと思います。