代表取締役社長 中島義雄

代表取締役社長 中島義雄

創業 1911年
事業内容
    • 万年筆をはじめとする各種文房具の製造、販売
    • プラスチック射出成形用品自動取出ロボットなど、ロボット機器の製造及び販売
    • 水処理装置「アクアセーラー」、窓ガラス用遮熱塗料「スマートコート」などの環境関連事業
会社HP http://www.sailor.co.jp

学生運動による謹慎

私が大学に入学したのは、
ちょうど60年安保闘争が終わった翌年でした。
終わったといえどもまだまだ学生運動の余熱が残っていて、
ストライキや反政府デモなど相当激しく若者たちが動いてましたね。

かくいう私も素朴な正義感、使命感から学生運動に参加。
かなり活動的な左翼グループに所属して、自治会副委員長なども務めました。
過激な運動がお咎めを受け、1年の停学処分をくらったこともありました。

停学が空け、無事に復学してからも正義感や使命感は衰えておらず、
何か世の中の役に立つ仕事をしたいと思っていました。
そこで、国家公務員試験を受け、
大蔵省(現:財務省)に入省することになったのです。

実は学生運動で処分なども受けていましたし、
採用されるとは思ってもいませんでした。
当時の面接担当官の方が、
「自分の考えや問題意識を持って行動するぐらいの人物の方が望ましい」
と言って合格させて下さったんです。
この言葉は大変嬉しかったですし、
何より人生の転機となりました。

役人時代の経験

大蔵省では主に予算編成の部局、すなわち主計局に所属し、
年金、保険などの社会保障分野の仕事に長く携わっておりました。
来るべき高齢化社会に向けて毎年のように制度改革が行われるなど、
業務は多忙を極めていましたね。
将来の財政負担の増大を少しでも抑えるため、
制度の見直し、支出を減らして収入を増やす方法などを議論して考えていました。

主計局で総務課長を担当した後は、
内閣総理大臣秘書官などの要職にも就かせてもらい、
永田町と霞ヶ関の間に立った仕事を経験しました。
なかなか厳しい労働環境でしたが、
持ち前の使命感で仕事は思い切りよくこなしていましたと思います。
そして再び主計局に戻り、今度は主計局次長に就任。
ちょうどその年に阪神淡路大震災が起こり、
災害復興支援のために補正予算を編成しなければいけなくなるなど、超多忙に。
それこそ不眠不休でやっていました。

時を同じくして始まったのが霞ヶ関バッシングです。
役人が現状を知るために
国会議員、民間企業の経営者や新聞記者などと会食を設ける「勉強会」を頻繁に行っていたのですが、
これが問題に。
「官民の癒着だ」と突かれ、
積極的に勉強会を設けていた私が矢面に立たされることに。
不本意ながら退官せざるを得ない状況に追い込まれてしまいました。

稲盛和夫さんとのつながり

まだまだ大蔵省では仕事をしたいと思っていた矢先だったので、
バッシングは相当なショックで深い挫折感を味わいました。
気持ちの整理をつけるために、
知人の勧めでアメリカの大学に留学し、2年間勉強をしました。
帰国後はかつての勉強会で知り合った京セラの稲盛和夫名誉会長と再会することになり、
「君の評判は聞いているが、出直す気があるのならウチに来ないか」
とありがたいお言葉をかけていただきました。
躓いた人間にもチャンスを与えてくれる懐の深さに感動し、
そのままお世話になることに決めました。
特別待遇などはありませんでしたから、いきなり現場へ配属され、
半年ぐらい経験を積んだある時、
再び稲盛さんからお話が。
当時「コピーの三田」と言われるほど有名だった、
三田工業(株)(現:京セラドキュメントソリューションズ(株))が会社更生法を申請し、
京セラがその救済に乗り出すということで、
その再建の仕事をやってくれ、ということでした。
官から民へ来てまだ半年も経ってない時期でしたので、
少し時期尚早の感はありましたが、
結果的にはこの仕事が民間企業経営を勉強する良い機会ともなりました。

まず取り組んだのが約2000億円の借金をどう減らすかでした。
世界各国50行以上の銀行団と交渉をして、
債務85%をカットすることに成功。
工場も新築して本格的な再建に向け動き出しました。
この時実践したのが、京セラ流のいわゆるアメーバ経営。
これは稲盛さんが提唱していた方法で、
少人数でいかに採算がとれるように個々人が力を出し切るかというものでした。
一緒に働いていた社員の協力もあって、
更正法申請から3年もかからずに再建できる見通しが立ったのです。

セーラー万年筆入社、同年社長に就任

三田工業のスピード再建は私にとって、
民間へ来て初めての大きな仕事でもありましたので、
これを成し遂げたことは大きな自信へとつながりました。
その後も、京セラが中国に作った販売会社の初代社長に就任するなど、
精力的に活動を行いました。

するとある時、中堅どころの某電気メーカー社長から、
「私の右腕になって、力を貸してほしい」とお呼びがかかったのです。
稲盛さんに相談したところ、承認するように勧められ、
そのまま副社長として招聘されました。
やがて任務が終わり、非常勤として1年半くらい勤めた後に
セーラー万年筆から、声がかかったのです。

セーラーと聞けばすぐに万年筆を思い浮かべるくらい、万年筆が有名な会社。
もともと愛用していたこともありましたし、
文化的で良いなと思って快諾しました。
当初は常務として入社しましたが、
同じ年に社長が病に倒れ、私に経営のバトンが回ってきました。
予定より早いバトンタッチでしたが、
同年の暮れには社長に就任することになってしまいました。

第二の創業

就任してから約4年が過ぎましたが、
その間に当社は100周年を迎え、
今年で創業103年目を迎えます。
伝統と歴史がある会社ですが、
それだけに非常に保守的だなと思いました。
歴史ある会社にはよくあることですが、
環境に合わせて変化していく気風が乏しいなと感じたのです。

もともと筆記具のマーケットは戦前、戦後こそ順調でしたが、
現代になるとパソコン、スマホ、タブレットなどの電子機器の普及に伴い、
市場は減少傾向にあります。
その中でこれまでと同じことをしていたのではダメだと思い、
筆記具を軸に新しい分野への参入をしていこうと考えました。
第二の創業です。

まず取り組んだのが、役員を刷新すること。
役員一人一人と話し合った上で若い人材と交代をしてもらい、若返りを図りました。
次に取り組んだことが無数にある製品ラインナップの見直しです。
「赤字経営は悪である」と稲盛さんがよく言っていましたが、
黒字化するためにも不採算の製品はラインナップから外し、
採算がとれる製品だけを残すようにしたのです。
最後は新分野への挑戦です。
目に見えないドット印刷をタッチすると自動的に音声を読み上げてくれる「音声ペン」や、
静電気を利用してどこにでも貼り付く「どこでもシート」などを開発。
新分野は環境対策や、ポケットに入る放射線線量計「マイドーズミニ」など健康面にもおよびます。
これらの新分野参入はまだまだ発展途上レベルではありますが、
昨年12月には新たな増資を発表するなど、
今年はその成果が期待されます。
増資した分は工場の生産性の向上、物流の見直し、新製品の開発費等の設備投資に充てるつもりです。
その他に40年以上にわたってやっているロボット事業などもさらに充実させ、
改善させるつもりでいますので、
今年は何らかの良い結果を結べるのではないかと期待しています。

成功の反対は失敗ではなく何もしないこと

大企業と言えども生き残っている企業というのは
見事に転身を遂げたところばかりだと思います。
セーラーも伝統に甘んじていたのではこの先の時代を生き残っていくことは難しいでしょう。
良いものづくりに加えて新しいことに挑戦するチャレンジ精神が大事だと思っています。
だから「成功の反対は失敗ではなく、何もしないこと」なんです。

新事業の提案は社内から上がってくることも多いですが、
社外からお話をいただけることもあります。
100年以上にわたって万年筆をはじめとする筆記具を作り続けてきた技術力とノウハウを、
他の分野にも活かせるのであれば、
どんどん新しいことに挑戦していくつもりです。
教育、観光、環境、健康などなど、
視野を広く持ち続けたいと思いますね。

経営の状況によりしばらくは採用を自粛していましたが、
今年度から新卒採用を再開する見通しです。
やっぱり若い人を入れると社内も活気づきますし、
良い意味で刺激になるので採用には前向きです。
万年筆のセーラーという伝統を重んじるのも良いんですが、
むしろこれからのセーラーでどんなことができるんだろうと
ワクワクするような人に来てもらいたいですね。

社会人として仕事に就いて自立し、
家庭を築いていくことはとても大切なことだと思います。
学生運動の時に比べて今の若い人は社会的事象に関心が少ないように思いますので、
ぜひ経済を含め社会動向に関心を持って下さい。
情報化社会で、ITをはじめとする情報産業が盛んな時代ではありますが、
あくまでも産業の基本は製造分野だと思っています。
一つの製品を作るということは何とも言えない達成感がありますし、
仕事の手応えも感じられると思いますよ。
そして、人脈、人とのつながりは最大の財産ですから、
出会いやご縁も大切にして下さいね。