代表取締役社長 谷口 浩

South Pacific Free Bird 株式会社 代表取締役社長 谷口 浩

代表取締役社長 谷口 浩

South Pacific Free Bird 株式会社
設立 2004 年(平成 16 年) 3 月
事業内容
  • 海外での語学学校の企画、経営
  • 海外での居住地の企画、経営
  • 海外での老人ホームの企画、経営
  • 損害保険代理業・旅行手続き代理業
  • 輸入雑貨販売
会社HP http://www.southpacificfreebird.co.jp/

奨学金制度で中国の大学へ進学

私の生まれ育った家は、地元ではよく知られた裕福な家でした。
普通の感覚だと、それはラッキーなことなのかもしれませんが、
私は劣等感を感じていました。
そう感じてしまう経緯の一つに、私は高校生の時、生徒会へ立候補し、会長に選ばれたのです。
その時に何気ない一言かもしれませんが
「お父さんが社長をしているといいわね」と言われました。
非常に腹が立ち、怒りがこみあげてきました。
父親が社長をしている事と、生徒会長に選ばれた事は全く無関係なはずです。
自分の人格や努力などとは関係なく、結局行き着く先は“家が金持ちだから”
“社長の息子だから”です。正直うんざりしましたね。
その時、ふと感じたのは、父親のお金で大学に行ったら、
この先もずっと同じことを周りから言われると思いました。
そこで何としてでも、大学は自分の力で行くと決めたのです。
私はそれを遂行する為に、奨学金制度で大学に行くことを目指したわけですが、とある事実に直面します。
日本の奨学金制度は、両親の年収によって奨学金が出るかでないかが決まっており、
ある程度の年収があると奨学金が出なかったのです。
いくら成績がトップでも私は該当しないことが分かりました。
どうにかならないものかと色々調べた結果、中国の大学の奨学金制度には、
両親の年収の枠などなく、平等にお金が出ることが分かりました。
そこで、私は中国の大学を目指すことを決めたのです。
試験は日本と中国の二カ国で行われ、物理学の専攻を希望していたので、試験科目は英語と物理学と数学。
とにかく猛勉強をして、そして努力の結果、無事に合格することができました。

大学中退、放浪生活の始まり

奨学金が出たため中国に渡り、勉強をすることになりましたが、実のところ、3年半で中退をしました。
理由は色々ありましたが、大学の先生とぶつかったことが大きいですね。
しかし、辞めたはいいですが、当時はまだ“仕事をすること”など全く考えておらず、
しかも先のことは無計画でした。
とりあえず、仲の良いアフリカ人の友人を頼りに、香港にいるその友達の友達の家に
行くことにしました。そこで出会った人たちは、お金がなくても、困っている人間を
助けてくれるイスラム教の優しい人たちばかり。
何も持っていない自分に、ご飯を食べさせてくれたり、世話をしてくれました。
半年くらい経ったある時「そろそろ働くんだ」と皆で私の履歴書まで作ってくれました。
そして私は香港で就職活動を始めたのです。
中退した大学は中国の名門大学だったこともあり、受けた会社は全て合格しました。
その中で私が選んだ会社はマンション売買関係の仕事。
とても良い収入で、ある程度の貯蓄もできました。
ある程度のお金を手にすると、私の悪い癖と言いますか、放浪癖がむずむずと出てきてしまい、
たまたまその時、タイの建設会社の現場監督の話もあり、慣れ親しんだ香港を離れ、
タイに行くことを決めたのでした。

日本に帰国、家出と起業

心機一転、タイに行ったわけですが、なんと初日に社長と衝突。
1ヶ月で辞めてしまい、バンコクでバックパッカーの生活が始まりました。
そのような生活を送る中、忘れもしない1997年7月1日の出来事が起こります。
朝、TVを付けたところ、大事件が起こっていました。
タイのお金「バーツ」が切り下げになったというのです。何が起こっているのか初めは詳しく理解
できなかったのですが、一日にして自分のお金の価値が半分以下、物価は倍以上という事態。
国は凄まじい状況でした。私もどう考えても手持ちのお金では保たないことは明らかで、
もうどうしようもなく、親に家業を継ぐことを条件におカネを借り、日本に帰国することにしました。
日本に帰国した私はやむなく、父の会社の仕事をすることになりました。
1年半ほど大人しく仕事はしていたのですが、根本的に父とは理解しあうことができず、
衝突の繰り返し。私はもう二度と家に帰らないことを約束し、家を出ました。
バイクで家を出て、たまたまガソリンがなくなった
石川県の金沢市という地で“何か”をしようと決意しました。
縁あった地、金沢市で、私は中国語の語学力を生かし中国人労働者に
日本語教育等を手掛けるビジネスコンサルティング関係の仕事を考えました。
ただ、資本金の問題があり、株式会社は1,000万円、有限会社でも300万円が必要で
当時の貯蓄額では到底無理な話でした。
どうにかして“箱”を持ちたかった私は、何かできないものかと調べました。
結果、財団法人と協同組合には資本金の下限値が設定されていないことが分かりました。
協同組合の作り方を石川県に問い合わせ、図書館に毎日通い、行政書士が作る書類を自力で作りました。
そして、1999年3月、許可をもらうことができたのです。

“出来ること”でなく“やりたいこと”をやってみよう

1999年に許可が下りてから2004年まで、理事長という肩書きで事業を行っていました。
協同組合なので、トップは社長ではなく理事長になるわけですが、
28歳という若さの理事長はかなり珍しく、従って多くの年配の方からの反発も非常に多く、
正直やりにくい環境でした。
また、自信のあった体も初めて壊したことも重なり、2004年退任することになりました。
2週間入院した後、ある考えが浮かびました。
自分は今まで全力でやってきた。だけどそれは“出来ること”をしてきただけなのではないか。
と考え、本当に自分の“やりたいこと”は何だろうと考え直しました。
辿りついた先は、学校教育。それが今の“South Pacific Free Bird”なのです。

語学学校だけでなく、高校も手掛けています

この会社も、今年の3月で7年が経ちます。経営は至って順調です。
私はたくさんの国に行き、たくさんの人たちと出会い、その中で留学をして
勉強したいと考える人の多いことから語学学校を創りました。
そして今までにない低価格、しかも中味の濃い内容を目指しました。
フィジーを選んだのは素晴らしい環境や現地の人たちの陽気さなど、
非常に留学に適している地だと思ったからです。
現在のフィジーは少子化のため、小学校舎は空きが多く、その為優秀な先生たちは
仕事がないという状況に陥っています。
そこで考えた出したのは“高校を作る”ことでした。
留学という短いスパンのものより、長期的なスタンスの高校の方が、永続性、安定性があり、
経営面でも雇用継続の面でも社会的にもWIN・WINの関係です。
フィジー大使と面接する機会もあり、
昨年の9月から子供が不足して低迷していた高校を継承し、この考えを実行に移しました。
現在はフィジー人600人を無償で受け入れ、そこに日本人など他国からの学生を受け入れています。
今の目標という面では、現在の高校はすでにいっぱいになるため、拡大したいということと、
日本でアトピーに悩んでいる子供たちの受け入れを、積極的に行いたいと考えていることです。
フィジーは環境的に水も空気も汚染されてなく、日本で包帯をぐるぐる巻いていたという
子が、フィジーの学校にきて良くなるという事があったからです。
そのような子供たちを受け入れ、のびのび勉強をしてほしいと思っております。

就活中の学生さんに一言

私は人を落とす時になぜ落ちたのかという理由をその人物に必ず伝えています。
もしダメだった場合、なぜ自分は落ちたのか、企業側に聞いてもいいのではない
でしょうか。その理由を改善し、次のチャレンジをしてみて下さい。
また安易な選択肢、アルバイトや派遣など、自分の中でなくす覚悟も必要です。
フリーターなど他の国にはない言葉です。
今が勝負と思い、自力で勝ち取ってほしいと思います。