代表取締役社長 レイコ B.リスタ

株式会社エル・インターナショナル 代表取締役社長 レイコ B.リスタ

代表取締役社長 レイコ B.リスタ

株式会社エル・インターナショナル
設立 1979年9月1日(創業)
事業内容
  • 海外化粧品の輸入販売
会社HP http://www.elle-international.co.jp/

英語大好き!成績優秀な女学生時代

私は小学校教諭の両親のもと、東京で生まれ育ちました。
家にはお手伝いさんがいて、当時としては比較的裕福な
暮らしであったと言えるでしょう。

子供のころから本の虫で、幅広くいろいろな本を読んでいました。
しかし東京大空襲で家を失い、財産も失ってしまったのです。
そして、転居先の横浜で終戦を迎え、小学校5年生で編入。
それほど勉強はしませんでしたが、成績は常にトップだったと思います。

女学校では演劇部に入り、外部の舞台にも出演したり、
神奈川県代表として弁論大会にも出場していたのです。
また、英語が非常に得意で、米国から学校に視察に来た人の通訳を
英語の先生に代わって私に任されたこともありました。

自立するために英語を猛勉強。モデルや女優の仕事も

子供の頃から決めていた大学進学を断念せざるを得ない環境下で、
高校卒業後は2つの語学専門学校に通って、英語を徹底的に勉強しました。
人に頼らず、自分の力で生きていくには独自の強みが必要だと思い、
自分の武器に磨きをかけたのです。

ファッションモデルの仕事もしましたが、
モデルは他人が選んだ服を着るだけ。自分の意志とは関係ないのです。
約1年で見切りをつけました。
また、女優として、2本の日米合作映画に出演しましたが、
女優になる気もなかったのです。

その後、アメリカ人の将校と結婚して家庭に入り、子供も生まれました。
家にはメイドがいて、恵まれた生活。毎週パーティーがあり、
華やかな世界でした。

でも、私はじっとしていられませんでした。
家で何もしない有閑マダムは性に合わなかったのです。

結婚後も働きたい!

そして、社会との接点を求めて、外で働こうと決心し仕事探しを始めました。
当時は、25歳の子持ち女性が、民間企業でフルタイムで働くなどありえない時代。
学校を出て、花嫁修業して、結婚して専業主婦になるのが当たり前でしたから。
毎日、英字新聞の求人広告を見て、英語を使った仕事を探しました。

そして見つけたのが、米国の化粧品会社の翻訳者の仕事。
正に自分にぴったりと思い、応募したのが化粧品との出会いでした。
そして採用。

会社は、私の英語力と日本語力を評価してくれたのだと思います。
(後で分かったのですが、会社は生活に困らない私が
果たして仕事を続けるかどうかという心配はあったとのこと)

翻訳の仕事から、持ち前のバイタリティで宣伝や幹部教育をするまでに

翻訳の仕事をしていると、会社のことや化粧品の事業について
知らなかったことがだんだんとわかってきたのです。
そして、新製品等の教育用マニュアルを翻訳しているうちに、
これを使ってどのように研修を行なうかということに興味がわき、
全国の美容部員の幹部が集まる本社での研修を見学させてもらいました。

すると、化粧品ビジネスのおもしろさや、第一線で働いている
女性たちの活気ある姿を見ることで、刺激を受けたのです。
こうして会社全体に目が行くようになると、翻訳以外にも
いろいろな仕事を頼まれるようになりました。
店舗で宣伝や接客をしたり、店頭で海外のメイクアップアーティストの
通訳をしたり、テレビ番組にも出演。
そして会社に提案として、全国の美容部員の幹部教育について、
「こうしたら」と考えて企画書を作りました。

それがハリウッドの本社の重役に認められ、私はその企画を
自ら実施する責任者となったのでした。
20代の私が、ベテラン美容部員を教育するのです。
会社からは更にいろいろな仕事が振られてくるようになりました。

私がそれを一生懸命やるものですから、また次々と新しい仕事が。
やれと言われたら、絶対に中途半端には終わらずやり遂げました。
そのために、必死になって勉強もしましたよ。
女性の就業機会が限られていた当時に、これだけ様々な仕事を任され、
自由にさせてもらったことに、非常に感謝しています。

美容部のトップとして有名化粧品会社から次々とスカウトが

ある時、フランスの伝統ある化粧品ブランドを日本に再登場させるということで、
私が美容部のトップとしてスカウトされました。
小さいながらも組織の責任者になり、第一線の、
数字責任も負わされるという未経験の仕事。
新しいチャレンジに自分をどう活かせるかということに興味を持ち、
転職を決意。

ここでは、1年目は美容部の責任者。
2年目には当時日本にはなかったマーケティング部門ができ、
何の知識もない私がいきなり責任者を登用されたのです。
驚きましたが、「会社の意向を受け、与えられた使命を果たすのが
サラリーマンだ」という思いで取り組みました。
それにより、会社が設定した目標を全て達成することができたのです。

3年勤めた後、アメリカ人の夫と離婚して人生をやり直すために、
単身アメリカに行きました。またゼロから仕事をする道を選んだのです。
そして、シカゴで就職活動を始めました。

化粧品会社に入るつもりはなかったのですが、たまたま有名な米国の
化粧品会社に紹介され、百貨店11店舗の美容部員の統括、販売責任者に。
1年強経つと、日本の大手化粧品会社からのスカウトが。
全米の美容部長としてアメリカ中を走り回りました。

後に、シカゴに戻り再婚すると同時に、自分の事業を立ち上げました。
それも史上初の、美容部員を養成する学校です。
卒業生たちは、化粧品会社から引く手あまたでしたよ。
また、それまでになかったイメージコンサルティングという仕事を考え付き、
アメリカ人対象に職業に合ったイメージ造りのアドバイスも始めました。

ブランド撤退の危機「責任を果たそう」と日本初の化粧品専門商社を設立

事業を立ち上げて1年半後、今度は米国の大手化粧品会社から
日本に戻ってほしいとの誘いが。
一旦は断ったのですが、1年後に再び懇願され、
2年間という期限の条件を付けて、単身赴任で日本に行くことに。
海を越えた女性の単身赴任第一号ですかね(笑)

期限内に2つのプロジェクトをやり遂げ、さあアメリカに戻ろうという時、
フランスの最高級化粧品を日本に導入する責任者になってやってくれないかという話が。
日本で2年間やりきった私は、アメリカに戻れば、会社が世界を統括する
ポジションを用意して待っていたものですから、本当に悩みましたよ。
しかし、日本で全く新しいブランドを、トップとしてゼロから立ち上げるという、
新しいチャレンジの機会に魅力を感じ、あえて難しい道を選ぶことに。

その時43歳。
サラリーマンとして会社を立ち上げ、日本初の大手外資の女性社長になりました。
1年と少し経った時、親会社の財政が厳しくなり、日本から撤退の危機に。
しかし、せっかく立ち上げたブランドを親会社の事情でなくすのは忍びない、
自分で始めたことは自分で遂行しようと思いました。
そして、45歳の時、日本初の化粧品に特化した商社である、
エル・インターナショナルを立ち上げました。
それまで、起業しようという意志は全くなかったのです。

外資系企業は、仕事は厳しいですが、自由にやらせてもらえる環境で、
待遇も良い、サラリーマンであることに何の不満も感じていませんでした。
しかし、自ら「責任を果たそう」という考えで会社を設立したのです。

自分の経験を活かして次世代の人たちの役に立ちたい

私は半世紀以上も化粧品業界で仕事をして来ましたが、本当にやりたいこと、
人生の最後の仕上げは、次世代の人たちの役に立つことです。
起業支援ではなく、今、仕事をしている人や悩んでいる人たちに、
研修をしたり相談に乗ったりすることで、
私なりに手を差し伸べることができるのではないかと考えています。

海外での仕事も含め様々な経験をしてきたので、何を聞かれても
必ず答えを持っていると思っております。
物を売ることは他の人でもできることですが、
私は何もないところから出発し、作り上げていくのが好きで、
今までやってきました。

常に自分の足跡を残すこと。そして人を育てること。
私にとって一番幸せな時。やはり、教育者の両親のDNAなのでしょうかね。

若いうちにあえてリスクを取り、自分の世界を広げよう

今の若い人は、無難な生き方を志向している方が多いように思います。
人生、無難に生きようとするとこんなにつまらないことはありません。
あえて困難だと思うことに挑戦してみると、
いろいろなものを得ることができると思います。

また、若者は内向き志向になってきて、海外留学する方も減っていますが、
海外に出ることは非常に良いことだと思います。
異文化の中に身を置くことによって、全く違う価値観の人と接し、
自分の考え方が幅広くなります。
なんでも無難に、自分の仲間内だけでという生き方を選択すると、
まず成長しないでしょう。

それに、困難な事態に遭遇した時に対応できなくなってしまうと思います。
若いうちにあえてリスクを取ること、積極的に自分の世界を広げることが必要です。
どの職業がいいか、どの会社がいいかという前に自分の人生なのですから、
どれだけ自分を磨いて視野を広げて、ないものを身につける機会を、
自分の手でいかにつかみ取るかが大事なんです。

考えているうちにどんどん時機を逃してしまって足を踏み出せない方を、
ずいぶん見てきました。
考えすぎて足を踏み出さないよりは、まず足を出して前に行ってみてください。
自分の考えたのとは違う結果になるかもしれません。
ただその時には、撤退する勇気を持ち、進路を変えればいいだけなのですから。